心の自由

  心を自由にする。と、いう言葉を知っていても 分かるような 判らないような よく分からずに そういう心がいい状態なのだろうと そういうようにありたいものだと概念の中に置いていた。

 しかし 最近 あ・・・こういうことなのかな・・・と 身体で感覚で心で捉えることができたように思う。

 父のXデーも そろそろ近くなってきていると思う。 母に勝手に殺さないでと怒られるが
病院に見舞いに行く度にもうお別れの時が来ているな。という気持ちを強め病院を後にする。

 そして 18年間 トンプソンと共にお世話になっていた病院の先生が 病気のためにクリニックを閉じることにした・・・と連絡を受けたのは6月の終わり。
ハンサムなN先生が、去年辺りからとてもお痩せになったので心配はしていたけれどショックで残念で悲しかった。よくなって欲しいと お祈りをしている。

 時の流れの中で 何一つ 同じ状態でいられるものがないことを 私たちは知っているはずなのに。なのに 多くのことを そのままにしたいと 努めすぎてしまうことは 不自然なことなのだ・・・。

 20歳の時の自分が そういった意味では一番 不自由な心を持っていた人間だったと思う。
 若さや 楽しい時や なけなしの容貌も そして 人から幸運にももらうことの出来た愛情表現なども ずっと ずっと そのままで保持したい そうであって欲しいと願う、切ないほどの心は それは それは プラスチックのように固く。 不自由そのものだった。

 それに比べれば 年をとることは 心が自由になることの良さと引き換えなのだなと いまここまできてしまった(そう、きてしまったのだ)と、そんな風に 私は思っていた。

 そして その具合のところに 死 というものが 現のものとして 自分の時間の中に入ってきているようになった今、 変わらないものなど 何一つ 本当にないのだ・・・庭ひとつみても 黒点病を抱えたバラは 手当をしてもらい 来年はまた違った花を咲かせるかもしれない。もしかすると 咲かせることが叶わずに 根を抜かなければいけないかもしれない。それはわからないけれど。 わかっていることは すべてのものは 盛りがあり、変化をし 朽ちてゆく ということ・・・ それは 仕方のないこと。と 諦めの心が 芽生えた瞬間だったのだろうか。 心が ふわりと・・・ すごく 軽くなったのが不思議だった。