このコロナのことが始まり。 戦中に生まれた実母に これまで意識したことのない質問を投げかけている。
「昭和16年生まれといえども、戦争の思い出はあるんでしょ? 戦時中ってお風呂はどうしていたの?石鹸という代物はあったの?」という私の質問に対し
「田舎だったから 比較的まだものはあったけどね。 あの当時は石鹸だなんてものは手に入らなくなっていたと思うよ。だから あの ほら 魚油から作った石鹸で 魚臭くってねぇ・・・ そこに 魚だから シラミがよけいに湧くという悪循環が生まれるわけ」
「ぎょっ・・・ 魚油から石鹸作る! クジラではなく?? けっこう辛いものあるね・・・で、あなたも それ使っていたんだ・・・えらいねぇ」
「 いやいや 私はミツワ石鹸使っていた」
「え? なんで??」
「そりゃ あのあんた、キクさんのことだもの 戦争が始まるとなる前に 五番館に行って 毛糸とか またそのほか必需品は数年分を現金で買ってきたっていうから・・・」
「うわ・・・でた。元祖買占めひんしゅく隊」
・・・と あのキクさん こと 西川キクさんは 母の祖母。つまり 私の曾祖母にあたる人である。
明治に長女として生まれ、実家が日露戦争で田畑をとられた後、父親が蚕の相場に手を出し失敗した。
その借金の支払いのために小学校を卒業するかしないかくらいの年に、石川県から船で一人、北海道の地に親戚の家に奉公人(働くために)渡ってきた。
その当時の北前船という船が小樽の港に到着し、札幌に向かってくる停車場でぼんやりと町の灯りが暗闇の中に見えたとき、あぁ 自分は 遠い遠い 未開の地にやってきたのだなと実感して涙で灯りが滲んでみえた。という話には、何度聞いても涙が出てしまう。
このキクさんが93歳で亡くなった時、私は18歳だった。 人の死もお祭りに思えてしまうような年齢の視線の中で、いろいろな親戚たちが集まり繰り広げられる会話。また お坊さんのお言葉などもかいつまんで集め、空知の9月青空の中に、火葬の煙が消えてゆくのを見つめながら・・・「私たちに気前よくお小遣いをくれた優しいひぃおばあちゃんは、もしかすると とても敵の多い人生を歩んだ人だったのではないかなぁ・・・」というう感想をもった。
都合のよいことに 私の母はその祖母に育てられたので、育ての親であるキクさんの話が、会話の端はしに出てくるから 私のその彼女に抱いた感想、疑問 知りたいことを、事あるごとに教えてもらえる機会があった。
13やそこらの痩せた少女は、まず吾妻にある雑穀屋に雇われた。そこでは頭の回転がよいことと数字に強いことで商売の方に間に合ったので、家のことではなく店のほうに駆り出されることとなる。 だから 晩年のキクさんの口癖は「私は、いつも店のほうに出されたから、家のこと料理、裁縫、女のすることを一つも知らないできてしまった」であった。
その雑穀屋で22歳の結婚する時までお世話になったという。
砂川の角ヨ角野という屋号の店に勤めていた曽祖父のところへ嫁にいくように。と、話を持ってきた親戚の叔父と叔母に言われるがままに、風呂敷包みひとつと、それこそ手鍋下げて東から砂川に向かい所帯をもった。
結婚してからしばらくの間、夫と二人でその大店にお世話になった。
そして、いつまでも人に使われているだけでは・・・と 夫と二人、まず最初に荒物屋から始め米穀店に拡げていった。きっとそれは、奉公先の雑穀店の仕込みがあったから踏見切った分野だったのかもしれない。
角ヨ角野さんから頂いた50円の退職金を元に、商売しても借金だけは絶対にしないという方針でキクさんは頑張ったらしい。
借金をしないで商売をするとなると 必ず仕入れてすぐに売れるものでなければならないわけで。 そうなると 味噌 醤油とか毎日消費されてゆくものをこまごまと扱う荒物販売で少しずつ資本をつくり、大きな金額を扱う米穀の商売にもキクさん独特の思い切りの良さというか・・・ここぞというときの決断の速さは大したものだと言われていた。
なのに 旗色の悪い話となると「西川の母さんときたら、流れのいい話にはこちらも出来ないような男並みの決断をするくせに。ちょっと具合の悪い商売の話となると、(いっとき算盤かりさせて、うちへ帰って父さんへ聞いてみないことには、いますぐには返事が出来ん)とくるから敵わん・・・」と 男の沽券で仕事をしている衆からは評判が悪かったと・・・私は想像する。
私の覚えているおばあちゃんは、もう半分寝たきりになっていたが、記憶の中にある着物姿は・・・それこそ 漫画の意地悪ばあさんの、あの姿なのである。
洗いざらした木綿素材の着物は丈が短く、骨だけになったような細っこく青白い足元がみえていたな。そしてなぜか、料理をするわけでもないのに前掛け(それもまたゴワゴワっとしたような質感の)をしていたような記憶がある。で、和服姿の肝である襟元(純白であったり素敵な柄の物をお洒落の工夫を凝らす場所)に 半襟を汚さないように白いハンカチを挟んで入れていたような。
私の知っている80代の姿がそうであったが、若い時は違ったかというとあまり様子は変わらないものであったということは、しっかりとしたかまどを持ちたいという一心でいた彼女は兎にも角にも、新品の着物はそのままにして置き、万が一の時はそれをお金に換えるとばかりに、着古した着物につぎはぎをあて、すりきれた袖口も補修しながら着ている姿に、たまたま訪ねてきていた角ヨ角野の大旦那さんが、見るに見かねて
「キク!おまえ、西川も男だぞ」と夫の代わりに怒鳴った。という話からうかがえる。
そんなキクさんは、おしんの世界を地でいって・・・着実にかまどを確かにしていった。
キクさんの残した数多くの名言の中で 「亭主とふたり、欲と二人連れで商売に身を入れている時が、人生の花だった」というのがある。
「おばあちゃんは、太平洋戦争でそれまで築いたものすごい財産と、大切な長男(母の父)を失くしたんだけれど、あの気質があったから また商売を立て直すことが出来たんだよねぇ・・・大した人だったと思う。おばあちゃんがあんな気性の人でなかったらさぁ・・・ お母さんは中学出たらすぐに働かなければいけないような身の上だっただろうに・・・女子大にまで行かせてもらえたんだから・・・。かえって 自分の実母(彼女は夫が戦死してから実家に帰り、違う人と再婚した)に育てられずにいた方が お母さんにとっては幸運なことだったんだよね」と よく言葉にする。
そのキクさんが したことだ・・・。 元祖買占め買い溜め派ではあるが 家族のことを思い、そして 先のみえる人であったから・・・ それに 嘘はつけなかったのであろう。 毛糸を買い占めた。石鹸を数年分買い求めた。あとは 何を調達したのだろうか・・・ 生きていたら ぜひ聞いてみたいことだった。
現在、ひんしゅくを買う行為であるのなら、当時もきっとそうであったと思う。影口をたたく人もいたと私はそう思う。お金にものをいわせてひどいことをするものだ。と、総ざらいになった空っぽの棚を見ながら訴えた人だっているだろう。
で、呑気に母は ミツワ石鹸を当たり前に使い暖かいものを着せてもらい育った。
キクさんは
日露戦争も知っている。 その後に親が相場に失敗し売られた立場となって遠い地にやってくる悲しさも知っている。借金がどれだけ怖いものかということを身をもって知っている。その怖さゆえ借金はしない方法で工夫をこらして商いを進め財を築けたちょっと珍しい人だった。そんな大した人である彼女の(誰もが必ずもっている)欠点のひとつは・・・計算が先に立ちすぎてしまう。そんなところであったと母は言う。
戦争が始まる。物がなくなる。早めに手をうたなくては。と・・・ それは当然人間の本能で起こす防衛行動ゆえに・・・仕方のない部分もあるが。
生きてゆく中で 曲がり角にくると必ず出てしまう欠点・・・・(それは 私も 誰でも必ずや持っているものだと 諦めるしかない種類のもの) それが そうであったという。
彼女のその先の利く性格おかげで、家族はミツワ石鹸を使いながら戦中を過ごした。が、大切な長男の命だけは買いつなぐことは叶わなかった。
そうだ いま 思い出した。 曾祖母の葬儀の時に、お坊さんがお経を唱えたのちに、故人を偲ぶお話が必ずあるが。そのときに
「西川のお母さんは、なかなか苦労も摩擦も多い一生であったかとうかがっております。(そんな感じのことを言ったかと思う)が、あの方ほど、一生懸命に念仏(お経)を唱える方をわたしは知りません。一心に心を込めて仏さまに向かう方でした」
戦死した息子のために一心にお経を読んだのだろうな・・・と 18の私はそう感じたのを憶えている。