Dictatorship 独裁

何の運命だったのか英語を話す人と暮らすこととなり、はたまた 英語を母国語とする人たちと一緒に仕事をしながら、これが英語という言語の根本にあるもの。というのを一つ挙げれと言われたら

英語を話す文化に生まれた人は、ほとんどが 小さなDictatorshipから大きなDictatorshipまでに拒否反応を示す。

私たち日本人 日本語を使う文化で生まれ育った人は どこかで 国の命令に従う または 家の長に従う 会社のトップに従う 命令に従うということを受け入れている部分があると思う。

それに小さなことなら臨機応変に対応し 上から下へ指示へいくなど 当たり前のことではないか?というように私たち(少なくとも昭和の後半生まれくらいまでの世代)は、そういう風潮の中で生かされてきたように思う。

だけれども 英語を母国語に持った人たちは 突然の変更、事前打診なしの独断的な行動というものに対して、非常に敏感だというのが、これ私の印象。 きっと多くの日本の人もそうなのでしょうが、あまりことを荒立てないでいてくれるだけなのかな。

この点において、自分は空気を掴むまで苦労したと思う。多分  まず打診して こうなる可能性があるからと布石をはり、行動に移すというのが身についている気配りの利いた人なら さして苦労がなかったのかもしれませんが。

英語は説明の言語だと、雰囲気でわかってよ とか 忖度?とかいう言葉?そんなのは 存在しないように 私の周囲に限っては思います。

事を起こす前にまず、スピーチ これこれしかじか と 行動に移してゆくために使われる言葉 それが 英語だと 私は信じていた。が! この度のトランプ氏が起こした行動には、思わず目が点になった。 有無をいわさず 国の警察(軍)を 騒ぎの起こっている州に配置したというのだから。

これって・・・ すごいことだと思う。 それぞれの州知事に説明もせずの独裁決断に対し、これから どんな展開になっていくのだろうか・・・と 怖さを抱いてみている。