不思議な現象

 自分は絶対に霊的なものなど信じるはずがない。非科学的だ。と拒む方が、当然大多数だと思います。
が、ですよ、が… 世の成り行きのなかには 少なからず 霊的なもので動かされているものもあるような気がしてならない時があります。
そうかといえ あまり 霊の存在、目に見えないものの存在ばかりを語り口調にしてしまうと危ない人、ちょっとズレている人とみなされる危険性があるので、あまり口には出さないようにしているだけなのではないかと…思ったり。

 これは、やっと自分でも口に出来るかなと思うので、思い切って書いてしまいますが
11年程前の一時期、期間では非常に短い数か月でしたが、私に何かスイッチが入ってしまった時がありました。見る夢見る夢(寝てみる夢)が、現実に起こってしまうという時期が続いたことがありました。あと なんだろう テレパシー力というのですか? チャネリングという言葉 あれは どういう意味をもってチャネリングという言葉なのか分かりませんが 持つ響きではおそらくそんなような意味ではないかな?というようなほど 人と言葉ではないもので繋がるような出来事が多く起こったことがありました。

 その時期は、中古の家に引っ越して直ぐのあたりで… 環境が変わり、何かが覚醒されたとしか言いようがないのですが…
そのうえ更にですよ… 引っ越して数日後の夜一人、台所で電気を点ける前に棚を開けたりと手を動かしているときに、私のその手の横を誰かが触っていった気配がしたのです。本当にしたのですよ… それには私もさすがにゾッとしましたが、それでも霊に対して否定感を持たない代わりに、自分は案外と恐怖心を持たない方だと思うんです。あ… もしかすると 前にいた方の念が、この家にまだ残っているのかな?手放したくなかった家だったと聞いているし。まだ気持ちが飛んできているんだろうな…くらいしか思いませんでした。
実際、トンプソンに言ったら 勘弁してくれと一笑されて相手にしてくれませんでしたし。それ以上騒ぎ立てても仕方ないと思っているうちにその気配はなくなりました。
が、私が一番怖かったのは、なにかのスイッチが入ってしまったというくらい、ぼんやり考えていたことや夢にみたことが現実となってゆくということでした。
おそらく 霊能力者と自称している方々は、こういった感覚を磨き上げていく訓練をしている人たちなのかな…と思いました。それは自分の知ることではありませんが。
 
 もちろん、そんな偶然があったのは一過性のもので、3か月くらいで、ありがたいことにその後はまったくフツーの人に戻ってしまいました。
あれは不思議な一時期でした。 目にみえないもの… 気配… 波動 そいうったものが交換し合える度数が高まっただけなのかもしれませんし。 引っ越ししたての時に 数日間 南東のカーテンが届かなく 朝日が集まる中を起きていたのにも一因があったのかも、しれません。

 いづれにせよ、その後、そういった目に見えないものというのを、どこかで重視するようになった感があります。

 また、その家に対して愛情を持ちつつも、その家の持つ性質というのを、自分なりに感じ取っていました。
好きな家だし、自分はここに惹かれてやってきた。そしてご縁のあった家だから大切に住もう。と、でも この家、土地の持つ性質は
陽と陰があるとするなら、陰に属する家だなと… 気配 土地の持つ性質が こう内に内に留まるという雰囲気を醸し出していました。
そして自分のそれからの10年間とよく似ていました。自分の内側にいるだけの毎日 生活 それが おそらく必要だったのでしょう。だから あの家と縁があったのだと思いました。

 不思議な家でした。 霊的なものを信じるきっかけを作ってくれた家。そして、心と向き合うことを教えてくれた家でした。

  この家にフランスから訪ねてくれたJean
 バラが似合った家でした

家の裏で アンティークの棚にやすりをかけて ペンキを塗りなおしたのも いい思い出です。

外回りの掃除

台風が長引き、少し弱まった9月1日にエイヤッ!と、中部国際空港への飛行機に乗りました。

そして、念願だった岐阜の郡上八幡で郡上祭り、飛騨高山を拠点に富山の八尾、おわら風の盆をみてまいりました。

岐阜県は個人的にとっても好きなところです。…なんていったって 大好きな綾野剛さんの出身地でもあるし>m<

さて、なぜに岐阜の街並みは大体 どこもそろって美しいのだろうか。と、思うことに
これは外回りの徹底した清掃のおかげなのではないか? と、朝の散歩をしながら色々なお宅の前を通っても、ほとんどの家がピシッと 家のまわりに雑草を生やすことなく、ゴミなどは無論あるはずもなく、落ち葉一つ落ちていないという状態を保っています。下手をすると水をまいてスッキリとしているお宅までみあたります。

こういう手当をしているお宅からは、家のお金のかかり具合とは関係なく実に立派な雰囲気が漂ってくるような気がします。

札幌で、住みながらも不思議に感じて仕方のないことは、どーして 大邸宅と称されるようなお宅で雑草を生やし放題にしても平気でいれる家が多いのだろうか。ということです。
店を構えていても 店回りの清掃に時間をかけているところは 光り輝く宝石のように目立ちます。普通は逆だと思うのですが…。

なぜだろう なぜ岐阜や他の多くの県の人たちに出来て、北海道 札幌の一角の街並みの人たちに出来ないこの差は何なのだろうか。と

家の教育、土地の風習を 北海道人は 受け継がなかったので、開放的だとよく称されます。
開放の自由とひきかえに 外回りをきれいにするという意識が身につかなかったのかな。に、しても もったいない。

関西の友人は、朝起きたらまず、家の前を掃くように親からの手伝いを言いつけられたと言っていました。
その差なのかもしれません。身につくには時間のかかるものかもしれません。が、身につけようと意識したら身につくものであると信じて
朝 2日に1回は 家、店の前の雑草をとり、掃き、水をまく。時間にすれば10分というところです。

夏の終わり

 夏が終わりそうですね。
今日からThompson Internationalもスタートしています。

 どんな夏を過ごされましたか? わたしは 課題にしていたカフカの感想文を書きました。
友人たちが二回ほど家に来てくれました。楽しい時間を刻むことが出来ました。
 夏の暑さに加えて、フェンスをつけたりとしたからでしょうか。松の木が一本、元気がなくなり心配してます。 針葉にシャワーをあてて洗う気持ちで水をかけながら、弱っている葉を手でこすりながら落としたり、ゆすったりなんだりもした夏でした。そして トンプソンが帰ってきたので、後ろにある山林の枝をはらったりとしてみました。

 植物、動物は環境の変化で 弱ったり 生き生きとしたりもするから、心が離せません。

 日中は普段一緒にいることの出来ない猫にも たくさん話しかけて可愛がってやると 嬉しいのでしょう。顔が笑っているようにみえます。そして 少し太ります。

 夏が終わってゆきます。
 あれだけ 嫌いだった 秋がそんなに嫌ではなくなって… これも 生きてきた変化の成せるものなのでしょうか。

 また 淡々と毎日をつないで 次はどこの点に向かってゆくのかなと まず あの弱っている木が元気になればいいなと それくらいしか考えられない小さな毎日の積み重ねですが……。



 

 

土壌改良 Soil Improvement

やっと、前の家から持ってきたバラたちが花をつけはじめました。
去年は 移植はしたけれど 新しい環境に 無理があったかな。そのまま 置いてきたらよかったかな・・・と申し訳ないことしたなと思っていたバラたちが 今年は咲き始めました。
去年はひたすら土壌改良につとめた甲斐がありました。
土を掘り起こし 石をとりのぞき 網にかけ 堆肥、冬の薪ストーブで出来た灰と腐葉土を入れて作った土を作ることに専念した一年。
それでも
木が2本淘汰された。そして ダメでもともとと思って持ってきた木の数本が新しい土地にあったのか、生き生きと、前よりもぐんっ!と成長してくれたり。
フェンスをトンプソンが建てたおかげで 風の向きが大きくなったのか、これまで花をつけたことのなかった沙羅双樹の木に花がつきはじめたり。
面白い現象が多く起きた。

バラも 咲いた。
一番花は切らないほうがいい。
明日の朝に切り花にしよう。 楽しみだ。

 冷やし中華が美味しかった。

 神宮祭の頃、札幌で好きなお宅を外から眺めるために見回って車を走らすことが恒例です。
札幌市内に、自分で知っている限りの数になりますが、好きだなと思うお宅が5軒ほどあります。

 そちらを毎年、この6月になると どこかかしか見て回る習慣があります。
理由は、お庭のよい季節。今年はどんな感じで励んでいらっしゃるのだろうか。と、参考にしたいのと、自分自身の家事のマンネリ化を避けるために喝をいれる為でもあります。
 
 自分が好きだなぁと思うお宅は、立派な家とかお金がかかっているとかそういうことだけが理由でないような気もします。
 5軒のお宅の中には、ごく普通の一般的な造りのおうちもありますが、5軒が5軒、みなさん、そこはかとなく暮らしを楽しんでいるのがうかがえるそんなお宅たち。

 あるお宅は、渋いグレーのコンクリートの外壁に、黄色(それも選びに選び抜いた黄色、マスタード色 品の良い黄色)を窓枠そして数か所の扉に使用していて、カーテンのタックのとりかたも贅沢にとって窓辺から静寂さを醸し出している。
几帳面な人が住んでいるのに違いないと思う 家周りは、雑草が生えていなく家の前に置いた二つの茶色い甕には、パステルに色づいた花が植えてある。 お庭は、家の持つ静寂な空気に程よく色合いを添える。という具合のタッチ(このタッチ具合がすっごく微妙なのだ)で、淡いのに色味の持ってゆきかたが、これもまた、選んでいるなと思わせる花を選んで植えている。
 センスの良いお宅だなぁと、いつも感心してしまうお宅。 男の人が家周りに関しては主導権を握っていると感じさせる家。 悔しいけれど、男の人のセンスの良い人には 敵わないと思うような人が、世の中には大勢いる。

 もう一つのお宅は、白い壁とガラスと、そしてシルバー色のスチール素材(今風なんだけれど、それだけではない印象を持たせる)を使ったお宅。
白い壁、ガラスで出来た風除室を引き立たせるのに、トロピカルなビビットカラーの花々の鉢植えを毎年、賑やかに飾っているお宅だった。 今年前を通ったら、表札がなくなり、そして目に鮮やかなお花たちは飾られていなく、植木も元気がなく、持ち主を失うと、家は本当に精気を失うのだなぁと思った。

 きれいに、楽し気に、一生懸命に家を、暮らしを楽しもうとしているお宅からは、なにかいい和音が流れてきてついつい走らせている車を停めて見入ってしまう。

 庭仕事が好きではない人もいるから、無理強いは出来ないけれど、土いじりの好きな人のいるお宅は木も花も嬉しそうだ。全てのものは生きているんだなぁと、風も生きているのではないか…と思うほど、風の向きで、対流で、木の成長も変わったりするのを目の当たりにみると、生きる、成長する、そして終わりを迎える という絶対の真理を、小さな小さな 庭の中の小宇宙で、体感できるのだから。

Romantic

ロマンティックなタッチのものが 義母の好みだったのだな。・・・と、カナダの実家からやってきた ティーカップやリネンのものなどを眺めて溜息をついていたことがある。

究極のマザコン男、トンプソンはカナダの実家が売りに出て、たたむというときに

日本に船便でコンテナ一個分にものを詰め込み それはそれは飽きれるようなものも 運んできた。

絵画は まぁ 許そう。しかし・・・ リネンや トンプソンの母が若かりし頃に使っていたハンカチやら・・・ はっきり申すと 私にとっては ただの布切れ。・・・こーゆーものに高い船賃かけて・・・勘弁してくれ。と正直思っていた。

…が、時刻の中で リネンを使う姿勢で挑んでみよう。・・・と、試みていたら

自分の知らない世界が 浮き上がってきた。

私の狭い世界では 作ることの出来なかった世界。 リネン・・・って ロマンチックなものなんだなぁ。・・・と。 昔というか 義理の母の生きた時代は ロマンチックな 1800年代後半の人たちが作り出す世界がまだ 普段の生活の中に残っていたのだろう。現代のような無機質、つるりとした空間ではない。

現代でも そういう生活空間を好む人はいると思うけれど、そういった品物は アンティーク、骨董と呼ばれるようなお店にしかみあたらなくなった。

・・・で ハンカチの類。

こればかりは あんた いったいどーすんの? と 昔のサイズって あの女の人が小指をたててくしゃみをするときなど くしゅんっ と鼻先に当てるという意図だけに作られたようなサイズ。 現代の日本サイズの手を拭くための大判サイズではない。

これは ハッキリ言って ゴミ。・・・と私の目にはずっと・・・映っていた。

が、トンプソンの手前、捨てるわけにはいかない。

・・・が、今年の夏。ある 変化が起こった。

これを ファッションの一部にしよう。と、夏の間は特に ちょっと額の汗を拭いたり。手先を拭いたり

ジーンズのポケットからギンガムチェックの柄を出してみせたり。白い服には少しロマンチックな刺繍のハンカチを合わせる。など し始めた。

ハンカチは 夏服と合う。 と 思った。

トンプソンの母親は、女らしい女性だった。本当に亡くなるまで。

こんな ロマンティックなものを若い時代から 愛し続けた人は 90を超えても そういう人だった。

Gardening 庭づくり

日曜日、晴天! よし!! 恵庭に草花を買いに行こう。と my car ラパン君に乗って てくてくと向かいました。

季節外れでも なんとか風知草がまだ 売れ残っていました。

それに合う グリーンも求めてきて なぜか この自分が なぜか 菊とかリンドウという そんな地味な花々を買いました。

年だなぁ・・・と 苦笑いしながら 帰宅して

さあ! と とりかかりました 目指すところの ロックガーデン。

家の前は、予算削減で土留めになるものとして 岩を使ってます。

ただの岩山だと ディズニーランドのアトラクションにしかみえなくても そこに草花を植えたらそれなりにかっこがつくだろう。と その 目論見は当たりました。

私は 草花等の係。

トンプソンは 大がかりなものの係。と 二手にわかれて 庭で遊ばせてもらっています。

庭いじりが好きでよかったなぁ と 土を触った後は本当に気持ちが安らぐから不思議です。

これから どんな風に 庭が出来上がってゆくのか・・・ 焦らず 楽しむように いきたいと思います。

背伸びしても 自分以上の 出来栄えにならないのが庭。そして 自分の手を使わなければ 成長しないのも庭。 だから 楽しいのだと思います。

The dream seekers

誰かが言っていた。想念は現実となる。と。

いいだけ 時を重ねて ひとつひとつ振り返ってみると。それは本当かもしれない。と思う。

その想念が出来るだけ 純度の高いものであれば 高いところを目指すことのできた人は そこにいけるのかもしれないし。高い運動能力と 知能と 健康と また 度胸のそろった人ならば 大きく大きく羽ばたいていけるのかもしれない・・・と、時々思うことがある。

けれど ほどほどの運動神経と、人より少し劣り気味の頭脳と 気の弱さが虚弱体質につながるといった自分といった人間の想念を大きく支えてくれたものは 数少ないながらも 同じ本を何度も何度も読み返し、イメージを膨らませることが 大好きだった その習慣だったのかもしれない。

Penelope Keeling stood in the middle of her warm and cluttered kitchen and tried to thing what she had to do next, and then decided there was nothing, because all that could be was already accomplished.  …..

But now all was ready.  Fires lighted in the sitting room and the dining room, drinks set out, wine opened to chambre.  Here, in the kitchen, the air was filled with the scent of slowly roasting sirloin, baking onions, and crisping potatoes.  She had made pastry, peeled apples, sliced beans* from the deep- freeze, scraped carrots.  Later, she would arrange cheeses on a board, grind the coffee, decant the thick cream she had fetched from the village dairy.

自分が 料理をするとき、常にこの情景がイメージの中にある。この人の描くキッチンの文章が脳裏に刻まれて私の身体が動く。

辰巳さんの料理の本。そして、この Rosamunde Pilcher という人の書く文章が私の脳に映像をつくっていく。それらが私の想念なのかもしれない。と思う。

本は、字を読むことが出来る人でもしもあるなら。(読むことが難しい人もなかにはいる。その場合はオーディオという便利なものもある) 出来るだけ 自分が関心のあるものを選んで いくと

無理だと思っていたことが 数十年後には出来てたりするから不思議だ。

早い人なら 数年なのかもしれない。 わたしには 十年以上の月日がかかったが

昔、昔、辰巳さんの料理本を読み。こんな料理を作れる人になるのは 一生かかっても無理なんだろうなと思いながらいた。が レベルはどうであれ 作っている。

そして 読んだ本の 文章のようなことが出来るのは無理なんだろうな・・・と思っていたけれど それに近いことは なんとなくしている。

想念は 現実となる。

一年長期保存ピクルス完成

出来ましたああ。 これで本当に一年間長期保存可能なら、苦労して作った甲斐があるはず。

昨夜、さっそく夜6時半に帰宅して、塩しておいた鶏ささみのフライを揚げ、茹でておいた行者ニンニクとルッコラをお皿に盛り、そして このピクルスを添え、鶏ささみフライを揚げる前に 白カブの葉を干しておいたのものを、水分なくすように弱火で揚げて、それに塩をパラりとふったもの。そんなものも ふんわりかけて お皿に盛ったら( またもや 食することに徹してしまい 写真撮らずじまい) これ なかなか いい感じの一皿に出来上がりました。

味も ピクルスの 熟れ味がいい方向に 鶏ささみフライをもって行ってくれる。

いいわぁ これ。 こういうのがあると 色々と食卓にあがるものが助けられるんだ。と、嬉しくなりました。

もしも 料理作るのが苦手 嫌い。と 思っているような場合は、 何を作ろうか いやだなぁ と台所に立つことが 苦手に思える 理由があるのではないかなぁ・・・と。 仕組みづくりを持てたら みな 次から次へと 手が動いてくるような気がするのですが・・・。 上に盛ることだけを意識した食事作りは確かに 疲弊してくると 思います。 が 下に下に 落としてゆく感じで 料理に取り組むと 面白くなってゆくように思います。

夏の間は 鶏ガラや牛のすじ肉からのスープ(出汁)づくりは少しおやすみし。 カツオ節を使った出汁をこの季節は ストックしておこうかなと考えています。 夏は和の出汁が 旬の素材に合うような気がするのです。

 

もてなし自分流

先日、友人2人が家を訪ねてくれた。 この祝日の存在が大変ありがたく。

翌日が平日で休みの定休日というのが 実に実に 貴重なのだ。

しかも!トンプソンはラオスに行き不在。

さあ 女友達を招こう! いくら肩肘張らない仲とはいえ、さて 何で招こうか。

と 決めたのが オーブンのパンそのままで作る パエリアと 普通のサラダ それにガスパッチョ。

その3品のみ。

自分が人に料理を作るとき まず3品くらいを目安にしている。 それ以上は雑な自分には難しいことがわかっている。

そして 一つだけ 課していることは、作る工程を必ず丁寧に丁寧に心がける。清潔に、丁寧に。味の美味しいまずいは そののちで。 プロの料理人ではないから とにかく新鮮なものと清潔さ。それだけである。

アルゼンチン、スペインと1っか月以上かけて過ごし帰国して3日目の友人と、旦那さんにお刺身をあたえて(犬のようですが)かけつけてくれた友に感謝。そして 札幌不在だからと、ニュージーランドのスパークリングとマヌカハニーのお土産の差し入れをしてくれたKさんに。

心よりの感謝を込めて。それなりに懸命に作りました。

平均年齢62歳の 女の集い。 少し遅めの桃の節句をイメージしてテーブルを意識してみました。

トンプソンのお母さんからいただいたリネンが大活躍でした。 お義母さん、ありがとう。

また、今度の会 今度はバーベキューできたらいいなぁと思ってます。