しゃれたお顔の人

3月31日、自分の40代のほぼを占めて、約10年間抱えていた問題が終着しました。
当日は少しぼーとし、翌日は気持ちよく肩の力が抜けたように仕事場で過ごし、休みの今日は、化粧品の整理をしました。

これからはこの量で良いな。という目安がこれで減る事はあっても増えることはないでしょう。

10年振り返り、長い長いトンネルであったけれど、そのなかで 多くの人が思い通りにならない時間を過ごしながらいるのだ、と…

すべて 整理整頓した中で生きたいと願っても それは 傲慢なことなのだ…と 教えられました。

ゴチャゴチャ ワヤだわ?と やりながら そこに光を見出しつつ 日々、だましだまし 時間を紡いでいくうちに 何か やわらかい 春の陽射しの中に 浮かび上がるのかなあ…と 春の光のなかで化粧品整理の時間が幸せでした。

ところで そんな時間を通過のちの自分の視線が変化をとげていることに気づくことがありました。

人のお顔をみる時の視線が変わったのか。 美しいと思うものに対しての意識が変わったのか。

先日、とてもしゃれた顔の人だなぁと思う女性をみかけました。

いくつくらいなのか、分からないけれど 40代以上ではあると思います。

ふんわかと明るい表情をしながらも、落ち着いた感じの人でした。

いいお顔をした人だなぁ・・・と いいなぁと 遠くの席にいながら 私はその人の顔にしばしみとれていました。

若い時は 顔の造作やスタイルやそういったものに 視線がいっていたような自分なのに。 いまは いい表情のしている人だなぁ というものに 魅力をおぼえます。

全てが順風満帆、悩みのない人は いないぞや。と 判明したせいか。

眉間にしわを寄せずに 猜疑的な表情が顔に残ってしまっていない そんな 穏やかな表情の人に憧れを感じます。

解決前の一年くらいはすっかりと疲れ果て暗い、トンネルにはまってしまい気がつけば 家の近所の 新興宗教団体の掲示板に張り出されている “幸せとは” なんて見出しの前で立ち止まりその訓示を読んでしまうほど弱っていたので人間最後は宗教 いや 信仰がないと救われないのかね? と自問自答してしまうような具合でした。  
神様に救ってもらうのは 自分らしくない と さすがに 教会の扉は叩くことはなかったけれど。でも 信じるものがある人は 明るいのかもしれないなぁ と 暗い目をした私は思ったものでした。

・・・と、まぁ それはさておき いい顔をしている人は 気持ちの明るい人だと思います。

色々なことがあるのは 当たり前で それを 明るく さばいてゆける 力が お顔に出るのだと思います。 素敵でした あの女性。 そして お洒落な人でもありました。

ここ数年間、ずっと 下を向いて 周囲を見渡していなかったんだなぁと ハッとさせられた そんな人でした。