長い夏休みをいただきましたが カナダ・オンタリオ州より 無事に戻り、8月18日より 開店しております。
ロンドン バンクーバー スコットランド へと 旅立たれた生徒さんたちも 無事に帰国され 暑い暑いと文句を述べながら 全員が旅の安全に守られたことに ほっとしています。
さて、わたくしは カナダでコロナになりました。
まず わたくしが先に発症し、二日おくれてトンプソンが発症。
どこでかかったかというと あれは きっと、トロントからオタワへの乗り継ぎ間に、3度の飛行機の出発遅延がありました。 3度もゲートを変えられ そのたびごとに 乗客予定の皆様は 怒りの温度が上がってまいります。 3度目の時には もう 空気の中に 赤い炎がみえたほど。 人々はマスクもせずに 語り始めます。 唾を飛ばして 怒りを主張する人もいれば 旅のゆきずりの者どおし憤怒を交換し合います。
で、なんとか 夜9時に飛行となりました。
オタワへ到着してから2日後に発症だからおそらく、トロント空港なはず。
さあ 初のコロナ。 しかも 旅先。
ナイアガラオンザレイクの義姉宅での滞在は、もう そこで却下。
が、 とにかく眠い。私はオタワのホテルで昏々と眠り続けました。
トンプソンは私が倒れても 二日間長く元気でしたのでしっかり色々と活動しながら食べ物を調達してホテルの部屋に戻って来てくれました。このとき ありがたかったのは わたしを責めることなく、一人部屋に残しておくわけにはいかない。と マスクをしながら 一緒にいてくれたことです。 きっと 彼の中で もうかかっているとわかっていたのかもしれませんが。運命共同体の道をとってくれました。
トンプソンは二日後に、しっかりと陽性マーク。
その時から私たちのサバイバルジャーニーが始まりました。
二人で 慎重に相談しながら 色々なことを決めてゆきました。
まず 自立した行動を得るために レンタカーは必須。
そして 長期滞在できるところを探そう。 それには 残念ながらお義姉さんの住むナイアガラオンザレイク近隣は 諦めた方がよい。 というのは 観光需要が高いのに合わせて ホテル代が異常に高い。少し離れたところにある窓の開かないようなしけた部屋でも 300ドル以上。こんなところへいたんじゃ 治る病気も治らんと、私たちは意を決して そこから レンタカーを手に入れ脱出。
結構、実は その時の決断は トンプソンの家族たちの反感をかったけれど。
私たちは そうすることが良い。と決めて 決行。
トンプソンが土地勘のある 出発先から車で5時間近く離れた自分の母親の育った田舎町を目指すこととなり、それにしても そこにはホテルはないので そこから車で30分ほどの オンタリオ ロンドンという 人口423000人くらいの中都市に パークホテルというホテルがあり、そこに 私たちが求めていたような部屋があったのです。それも やっとみつけた 残りの一部屋でした。 世界はいま 人々が動き出して ホテルの部屋もなかなかとれない。
一泊 平均 160ドルくらいで Suite room 寝室の他にもうひとつ部屋もあり 窓も開き そして マイクロウェーブ や 洗面台も洗濯できそうなほど広いものでした。
私たちは 結局 その部屋に6泊し、洗濯し、マイクロウェーブで出来る料理をし、暮らすように日々を過ごしました。そして ただただ もの言わぬ人々を毎日訪れていました。もの言わぬ人々というのは トンプソンの母親の祖先の皆様のお墓たち。
そうとはいえ、途上で 短くとも 色々な人たちと 話をすることが出来ました。
私において 今回の旅で ひとつ 自分に起こった 一番の変化は・・・
移民されてきた人たちと 心から 自分の言葉で 会話をしあえたことでした。
ここ数年の 私のカナダへの旅は カナダで脈々と生活を続けているトンプソンの家族たちに囲まれ 自分のコンフォートゾーンから出ることなく 過ごすだけ。 障りのない言葉を選び、そこそこ英語で 会話して 義務を終えて帰ってくる。
それだけに徹していた 自分がいたんだな・・・ そこにとどまることにずっと意識を働かせていた自分がいたことに その殻から 少しだけ抜け出さなければいけない状況に置かれ そうした時に 気づきました。
トンプソンが倒れてしまっていた時に ただただ眠い自分ではあるのですが このまま眠り続けていたら ダメになる。 命だって細くなる。なんとかせねば! と 自分で食べ物をGetするために動く。そして 自分の欲しい情報を得るために マスクをしながらベッドメーキングの人と話したり 話せそうな人と話したりしているうちに なんとなく町の情報が集まってきて 力が出てきて 人ごみを避けて 素晴らしい場所を訪れたり、美味しい料理屋さんに 少しよくなってから行ったり。 野菜 肉 手作りの冷凍料理の美味しい店には 何度も足を運び 少しお店の人たちから 明日もあなた来るんでしょ。と少しかまってもらえた頃にコロナもそのうちにきっちりと陰性になり・・・無罪放免となり 最後の二日間だけ トンプソンの家族たちと会えた。という具合の旅でした。
でも 今回 トンプソンと二人 支え合って 協力し合い 切り抜けられた時間は 私にとっては宝物になりました。
帰国し カナダバンクーバーのサマーキャンプから帰ってきた中学2年生と 授業しながら
雑談の中で・・・
彼が高校から カナダへ行くかどうかを決めるために 今回 そちらへ行って帰ってきたのですが
実は 迷っている。と 本当に悩んでいることを 知りました。
なんで 躊躇してんの? という 私の質問に
「Food・・・ 正直 ホームステイ先での食べ物が今回のあれが続くようなら 自信ない」
「そっか・・・食べ物は重要だもんなぁ。わかるよ」
「うん・・・かなり重要」
「わたし。カナダで K君 どうしているかな?って 思っていたよ。バンクーバーでどんな時間を送っているかな?ってさ で、 私は 思ったよ。高校生から カナダで教育を受けるチャンスに恵まれているのならさ。行けばいい。って あの おバカな響きのまったりとした若者英語も 高校という時空の中でしか使えないわけだしさ。 その 若者言葉を真似するだけに高校時代を アメリカで過ごして それだけ。というような失敗例もみたけれど。それだって経験のうちの一つなんだよな。って。
で、今回わたし コロナになって 移民の人たちと 自ら積極的に少し話する機会があって あたし 感じたことなんだけどさ。 ここに英語を子供に習わせたいって やってくるお母さんたちのなかで最も多い言葉が 最初は 子供がどの世界でも生きていけるようになってほしい。・・・なんだよ。それが そのうち 成績 そして 受験対策に変わってきてしまうんだけど。
平和な国で生きている私たちが どう逆立ちしたって シリアや アフリカの独裁国から逃れてきたような人たちのようになれ。といっても無理があるなかで・・・
あの人たちの 話す言葉には みな ハートがあった。少なくとも 私に話す言葉には 訴えるものがあったのは あれ きっと 生きていることに感謝している 気持ちが 聞き手に伝わるんだろうな。
こんなにひ弱に生きている自分が偉そうに語れる立場ではないけれど、 生への感謝。 それを 持っている人は強いんだな。って・・・。今回は 心から感じた。
あたし K君が 食べ物への不安を感じて自分のComfort zone から出たくないその気持ちは すごくわかる。 日本ってそれくらいいい国だもんな。でもさ カナダの高校に行こうかどうか だなんて 迷える その贅沢は 皆が皆持てるものじゃない。
そんな選択肢が 目の前にあるのならさ。行けばいいのにな と 素直に私 思ったよ。カナダで。
キミなら 自分のComfort Zoonを抜け出して あちらで逞しく生活できる人の一人だと 私はそう思ったよ。
もちろん 日本で しっかりと成長してゆく K君も すばらしいことだと思うし」
と
彼の目が キラリと閃き
「カナダ 行く」
「行くの?」
「うん。 怖がっている場合じゃないな・・・って 思ったら 怖くなくなった」
「ホームスティ先 料理のうまい イタリア系とか フランス系 希望したら?」
「うん そうする」