「Hさんから入金があったわ…」
銀行で記帳をしてくることを頼まれ、そのまま中も見ずに通帳を渡した私に、母はポツリと言った。
え?Hさんって あの お父さんが亡くなった後に、あたしが手紙を送った人?
「そう。全額返金してきた」
「へええ・・・そう・・それはそれは・・驚いた」と、信じられないでいる私は通帳を覗き込んだ。
本当だ。途中で途切れていた入金の残高、数万数千円が入金されている。
あれは、父が亡くなって一年か二年後くらいだっただろうか。いまから六年程前。
父の死後、借用書のコピーが数枚出てきたことは知っていた。おかげさまで借りた方ではなく 貸した方という立場での借用書だった。
母が苦々しく、20年以上経っているというのに一銭たりとも返そうとする姿勢をみせたことのないある2枚の紙をみつめながら、「お父さんがいるから、あまり強いことはこの親戚のFさんには言えなかったけれど、それにしてもだらしない。もう25年も前の250万円の借入なら、毎月1万円ずつ返していたら とっくに返済が終わっているのに。それにこのHなんか たったの9万円だよ。それをはなから返そうとも思わないんだから…ホントにねぇ」
「お父さんの優しさは、相手をダメにしてしまうところがあったもんね…」と 父の優しさに甘やかされて育った自分など、その最たるものだ。と自嘲を込めて言う。
「お父さんは、きっとあげるつもりで貸したんでしょ…。仕方がないよ」と 私はそれから、そのことは頭になかった。
が、母の会話の中に 時々、その2名のことは出てくることを知った私は、ある日、こう言った。
「お母さんさ、文句を言ってるくらいなら、行動を起こしなさい。まず書面で文書送るの。そういう場合は内容証明で」とはっきりと、言った。
「そんなあたし、そんなの得手でないから出来ないわよ。知らないわよ。そんな文書どうやって書けっていうのよ」
普段は強気な態度をみせていても、虎の威をかる狐 と 父の威を借りてえらそうにしていた母も、そんな、お金の話を自らするなどという、ハシタナイこと、自分ではできないと思ってしまう古風なシニアの一人なのだ。
思い立ったらすぐ行動。早速 それらしき文書をインターネットで調べて用意し、中央郵便局から内容証明郵便で借用書のコピーをつけて、相手の方に送らせていただいた。
すると 驚くことに、その二人の人たちから同じくらいに連絡があり、すぐには全額返せないが、毎月5000円ずつ返してゆく。との意思表示があった。
Hさんの9万円は毎月5000円ずつで完済の見通しはつくというものだが
Fさんの250万円は毎月5000円 しかも齢80は超えているというから 一体どうなるのかなぁ・・・と不思議に思いながらも でも その誠意だけでも 天国に行った父は ありがたくいただくのだろうな。と
なぜ この世に残ったあなたの娘は、こんなことをしてるんでしょうか。ハッキリ言って借金取りの真似をしている娘をみて、あなたはどう思われますか?
・・・しかし、誰にも甘い あなたでしたが、ひとつだけ、実の娘に厳しくしてくれたことがありました。
借りたお金は、必ず小額からコツコツ返すこと。それが人からお金を借りるときの心得だよ。と、母をつかって 電話での催促と娘の私の借金には厳しかったですね。あげたものはあげたもの。貸したものは貸したもの。ほんとうにそれを叩き込んでくれたおかげで、なんとか自分も いま世の中を騒がせている政治家のような恥ずかしい思いをせずに、世の中に飽きられずになんとかやっています。しかし、実の子には厳しかったことも他人様には甘く、それはお父さん、その人をダメにしてしまうことに繋がるのかもしれんのですよ。…っうことで。どうかご理解ください。
と、母の口座に毎月それなりに出だしは順調だった5000円もHさんの場合、とぎれとぎれとなり、9万円のうち折り返し地点の4万5千円で入金がストップしたらしく、母が また 私にぼやいた。
それに対し、私はこう言った。「お母さん、文句をぶつぶつ言うくらいなら、電話賃かけて私が室蘭まで電話してあげようか?」と、電話をそのご本人宅にした。
と、ここで、なぜにH氏が父からそのお金を借りていたかの説明をさせていただきますが
父の営んでいたお店の社員さんだったそのHさんは、父母の仲人のもと結婚式をした。
お嫁さんの父親は室蘭でも橋の建設などを手掛けるときのとび職を扱う会社を経営しているような人で、やくざの隣のような貫禄のような人だったけれど、男気のあるお父さんだったという。そのお父さんは最初から、そのHさんと娘の結婚は反対だった。が、二人は結婚し、子供たちは次々と生まれ、きっと途中にもそういう傾向があったのだと思うのだけれど、3人目の子供がお腹にいるときにHさんの浮気が発覚し、怒り狂ったそのお父さんは、婿養子に迎えていたHさんと娘を離婚させた。
で たった9万円の養育費が払えないとかで すったもんだをしていた際に、仲人であった父が仲裁にはいり。その9万円を貸したかたちとなったのが その9万だ。というのだ。給与天引きでもすれば済むだけの話なのに、父の美学がそれをさせなかったから、そのままの状態で残っているというものだった。
養育費ってそんなもんなの?3人の子供への養育費?と思いながら 私は番号を押す。
「はい、もしもし」と電話口に出た声は、中学校時代の同級生Mきだった。と、いうのはH氏は離婚後に なんと自分と中学校が一緒だったMきと再婚し、また数人子供をもうけている。というのだ。
「あ、Mっき?久しぶり、わたし ***です」と名乗ると。
「ああ、A子?久しぶり、なしたの?」と 変わらないちょっとハスキーがかった鼻に抜ける声。
この本題に直行できるあたりが、さすが室蘭のもと不良少女だけある。もと不良少女同士の再会がまさかこのような形になるとは…、なんというか。寂しいけれど 仕方がない。
「本当はご主人と話したいのだけれど、出来る?」と私。 いないというから、じゃあ。と切り出す。
「きっとご存じだと思うけれど、ご主人が返済途中の件のことで今日はお電話差し上げたの」
「ああ、あれのこと?」
「あれのことって…どういう風にMっきは聞いてるの?」と 筋金入りのヤンキーでならした彼女の口調に、今一歩 筋金入りの不良になり切れなかった私はびびる。
「あたしはさぁ、あんたの父さんが勝手にしたことだってHからは聞いてるよ。Hは本当はそんなお金持つ気持ちは一切なかったみたいだけど、あんたの父さんがそん時に、それじゃあダメだからとかなんとか余計なこと言って立て替えてくれた。って、余計なことは余計なことなんだわ。それにいま、うちはそんなお金返せるだけの余裕ないし。あんたにそんなこと言っても分かんないだろうけどさ」
…なぜか借金取りが啖呵を切られてまくしたてられている。普通はこれは逆じゃないのか…?まくしたてるのは私の方であるべきなのじゃないか? と 昔のMっきを思い出しながら私はその電話口の声を聞いていた。
私、彼女のこと好きだったな。彼女はどこかあったかいところあったのを憶えている。お母さんは、Y商店のTちゃんとか頭のいい優等生たちが大好きだったけれど、少し意地悪なところのあるTちゃんなんかよりずっとMっきの方が面白かったし、わかりやすいはっきりとしたところが好きだった。まぁ…それがTちゃんとの頭の構造が違う者同士の共通点だったと思う。
…が、なにもあれから数十年。そんなややこしく情けない男と結婚して9万円の返済に困るような所帯を築くためにあんた、ヤンキー人生歩んできたわけじゃないっしょ。とは、言えるはずもなく
「そういう風に、Hさんからは聞いてるの?」と、抑制しながら 私は聞く。
「そうだね」
「そうか…、娘のあたしがしゃしゃり出ていくような話ではないとは思ったのだけれど、20年近く前の借用書が出てきて、それをそのままにしておくわけには、私も心情的に出来なかったの。で、かくかくしかじかという文面で返済のお願いはご主人にさせていただいた。けど、その場で現に起こったお話は、父亡きいまとなってはHさんご本人と、元奥さんのご両親だけが知っている話だし、当のHさんが、本来は借りるべきお金ではなかったのに、仕方なく借りさせられて、借用書まで書かされた。と、思っているのなら、もう これは仕方ないわね。これは価値観は平行線でしかないもの。それは理解できるわ。HさんがMっきにそのようにお話されていることを、それを本当にご本人が思っているのならね。それでも、一応***の娘から電話があったことは伝えて」
「それは約束できないわ」
とガチャリと電話が切られる。
で、私は 母に 諦めた方がいいと伝えた。
私は、父の長所が不器用なくらいの愚直さになることも、知っている。
そこでそんなことをしなくても…というようなことまで背負いこみ、愚直さも貫き通せば律義さになる。というように生きてきた姿に反発したこともある。それは彼の器にはあっているかもしれないが押し付けられた方としてはたまったものではない。と、Hさんがそのように感じたことは嘘ではないのかもしれない。…が、我が子への養育費。しかも3人分で9万。これはどういう値の額なのか分からないが、まぁ、もう知らん。放っておけ。
と、すっかりと忘れて4年以上が過ぎて、何を思うところがあったのか
残額全額を振り込まれてきた。
驚いた。
きっとこの数年間、彼は 妻に伝えていることと、実際に起こったこととの間での違いの中で、それなりに考えることはあったのだろう。と、私はそういう風に思うことにした。
私は仏壇にむかい、お父さん、お父さんの優しさやお父さん流、余計な律義さはね、人をダメにすることがあったんだよ。でも、Hさん、このようにされたよ。と報告した。
いま、世間で騒がれている元財務副大臣より よほど いけてるじゃないかHさん。Mっき、あんたの旦那さんちゃんと落とし前つけたよ。よかったね。 と、Mっきのことを思った。