外回りの掃除

台風が長引き、少し弱まった9月1日にエイヤッ!と、中部国際空港への飛行機に乗りました。

そして、念願だった岐阜の郡上八幡で郡上祭り、飛騨高山を拠点に富山の八尾、おわら風の盆をみてまいりました。

岐阜県は個人的にとっても好きなところです。…なんていったって 大好きな綾野剛さんの出身地でもあるし>m<

さて、なぜに岐阜の街並みは大体 どこもそろって美しいのだろうか。と、思うことに
これは外回りの徹底した清掃のおかげなのではないか? と、朝の散歩をしながら色々なお宅の前を通っても、ほとんどの家がピシッと 家のまわりに雑草を生やすことなく、ゴミなどは無論あるはずもなく、落ち葉一つ落ちていないという状態を保っています。下手をすると水をまいてスッキリとしているお宅までみあたります。

こういう手当をしているお宅からは、家のお金のかかり具合とは関係なく実に立派な雰囲気が漂ってくるような気がします。

札幌で、住みながらも不思議に感じて仕方のないことは、どーして 大邸宅と称されるようなお宅で雑草を生やし放題にしても平気でいれる家が多いのだろうか。ということです。
店を構えていても 店回りの清掃に時間をかけているところは 光り輝く宝石のように目立ちます。普通は逆だと思うのですが…。

なぜだろう なぜ岐阜や他の多くの県の人たちに出来て、北海道 札幌の一角の街並みの人たちに出来ないこの差は何なのだろうか。と

家の教育、土地の風習を 北海道人は 受け継がなかったので、開放的だとよく称されます。
開放の自由とひきかえに 外回りをきれいにするという意識が身につかなかったのかな。に、しても もったいない。

関西の友人は、朝起きたらまず、家の前を掃くように親からの手伝いを言いつけられたと言っていました。
その差なのかもしれません。身につくには時間のかかるものかもしれません。が、身につけようと意識したら身につくものであると信じて
朝 2日に1回は 家、店の前の雑草をとり、掃き、水をまく。時間にすれば10分というところです。

女ざかり

 円山動物園と北海道神宮の間の裏山道に抜けるあの道を、ゆっくりと車で降りてきていました。
球場のあたりの雑木林の中を小さな子供を連れて歩いている女性がいました。
遠目から、銀色のスカートをはいているのが映りました。 銀色?と 自分の目を疑いました。

 銀色のロングスカート、けっこうボリュームのある。 うっそでしょ?…と、自分のファッションの常識範囲の中では受け入れがたく、近寄りながらもすんなりと受容機能が働くまで時間がかかりました。

 いくら老眼が進み、運転用の眼鏡は必要ないと言われた自分の目でも、それこそ目を疑う気持ちで、信号に近づく彼女に近づいてきました。

 運のよいことに車道が赤になりました。車を停めて(とめて)彼女をゆっくりとみることが出来ました。

 本当に銀色の長いスカートを身に着けていました。遠目から見たときは、どんなイカレタ感じの人がそんな無謀なファッションをしているのだろうか。と、一瞬拒否反応の動いた目でみたその女(ヒト)は、とても美しいひとでした。
 ファッションが好きな人なのでしょう、シルバーに光り輝くたっぷりとしたスカートに、白いぴったりとしたTシャツに白いベースボールキャップ。小麦色の焼けた肌は若々しく、小さな子供の手をひいて颯爽と歩いて行きました。

 銀色と、白と、そして小麦色の粒子が目の前を爽やかに、その暑い空気の中を通り抜けるように去っていきました。

 私はその粒子を素直に目で追いました。 爽やかで、美しく、そして ああ 女の盛りだなぁ と 首を横にしてまでもうっとりと眺めていました。 車道は青になっていたのでしょうか。 後ろに車がいなかったから良かったものの、クラクションを鳴らされていたのかもしれません。それくらい長い間、私はうっとりしていました。

 30代の女性は、思いっきりお洒落を楽しめばよい、そして自分の女の盛りを十分に享受した方がいい。と、その季節を過ぎてみると本当に心からそう、思います。
 30代はきっと色々と大変なこともあるかと思います。思い悩むことも多い季節であるだろうし、ミクロにみると苦悩に満ちた毎日なのかもしれません。
 おそらくおそらくですよ…その苦悩も30代を美しくさせる美容液に繋がるのかもと思います。

 苦悩に満ちた50代は心配になるけれど、葛藤に苦しむ30代というのも影が光を強調するようでいいものなような気がします。

 全て光のあたる面だけで生きてゆこうとする人にも、屈折した考え方しかできないと、自分に悩む人にも、30代は公平に与えられ、その季節の中で光と影をきれいに美しく描いていける時にいるのですよ。と、私などメガホンを使って言いたいくらい。
お洒落して、美しくして、私たちの目を楽しませてください。 そうすると みている私たちも楽しくなって あら あれいいな 買ってみようかなとか思ったり。 社会全体が美術館のようになればいいのになぁと きれいなものをみると嬉しくなるもんですよ。
 

 

 

秘すれば花

 けっこう深刻な歯の治療を始めて、8年近くが過ぎようとしている。
 時間のかかるもので、先生との出会い、そして手術への決断等、また時間をおきながら治療を進めていかなければならなく、気が付くと、父が亡くなってからと同じくらいの月日が経っている。が、これもやっと10月くらいには、ひと段落つく希望が生まれ、気持ちも少し前向きに明るくなりつつある今日この頃です。 8年近くもずぅーっと暗い気持ちでいたわけではありませぬが、まぁ 気持ちが晴れ晴れとしたということは数えるくらいしかなかったのでは?と、ここにきてみて振り返ると けっこう身体的にシンドイものでした。

 その月日のなかで 大病をした人の気持ちに、ほんの少しとは自戒しながら、それでも少し寄り添うことのできた気もし、また、これは ある発見のひとつに、歯の治療過程にあたり見た目がどうとかこうとかよりも、口内の違和感から自然と口が重くなり、話し切る自信がなくなることから、自ずと黙る 言わない。という行為に繋がりました。

 言葉足らず、情報伝達不足は仕事のうえで大変な失礼にあたることは重々承知していますが、プライベートでは喋らないということは、これはとても大切な行為だったのではないかと… いいだけ無駄にだらだらと垂れ流しにしていた過去の発言をもう一度かき集めて 何かの袋にいれて どこかへ 捨ててしまいたい。
いや! 無かったことにしたい。と、口から出た言葉の大切さに気付くのが歯の治療と共にというのが、情けなくもほんと、そうでありました。
かといって こうやって どうでもいいことを書きつらねヒンシュクをかってしまう自分はとめられないのですが。
こういう人を自己顕示欲、自己主張が強いと言ってしまうのです。おそらく。

 池波正太郎さんという作家が晩年無口になったといいます。これは病気をなさってからとまた、歯の具合が悪くなってから人と話すことが億劫になり、不機嫌なことが多く、同時に寡黙になられたとか。

 池波さんくらいのヒトなら いくら話されても、ありがたく多くの人は傾聴したでしょうが、普通の人は少し黙るくらいでちょうどよいのでは。秘すれば花とは こういう場合に使ってもよいのでしょうかと思いました。

 特にお酒の入ったときとかは、お酒の入っていない時よりついつい滑らかに出てきてしまう言葉を 70%くらいまで抑えて削り、人の話に耳を傾ける。自分自身では少し物足りないくらいの…、そういう行為に努めたいものです。 それが自然に出来るようになればいい ああ 出来るようになれますようにと祈るばかりですが。

 思い起こせば、人間関係のなかで友人だと思っていた人に対する賛同できない点、または感性の違いからくる不愉快な感情などを口にしてどうするのか?と、これまでの自分なら、言わないとギクシャクしてしまうと、相手に直ぐに深く考えもせず伝えたような行為も、口にするのも面倒だと思っているうちに、いやまてよ、言ってギクシャクするくらいなら言わないでギクシャクしていた方が余程良いのではないか? と、そのうちグレーのゾーンに落ち着き、ああ 言わないでよかったのかもしれない…と、最終的には至ってしまうことが、ずっと口の重い人でいれる利点だと思います。
 
 そして 黒でもなく白でもない振る舞いを、生まれて初めて意識して試みると、あれ? これって 自分もおそらくある人からそういう扱いゾーンにいたことが多々あるのでは? と 白と黒としか知らない自分からすると愕然と、ハッ!と背筋が寒くなり、精神的にもゆっくりとブロウが効き、改めて自分の言動を反省する気持ちになりました。

 しかし不利な点は、口の重い人は どこかで発散をしないと、なにか神経の病にかかってしまうのではないか? とも思ったりもします。

 発散型でないと神経を病む。 これが私の出した結論でした。

 父の方の血統がそういうタイプが多く。決して人に自分の心のうちをみせない。曝け出すことを恥としている。なんだか イギリス王室の掟のようなことを信条としてました。 私の知る限りでは父の母、祖母が特にそういう人でした。
美しい人でした。そして柔和な顔で 祖父の仕事に一役も二役も買うことの出来る よく出来た妻であり 母でありました。
祖母の口癖は、みっともない真似は例え、夫にも子供にもみせたくなかった。と、なぜか 晩年 孫である私に よく昔のことを話して聞かせてくれました。

 他人の悪口など口にするのはみっともない。そして 自分の実家の恥となるようなことは一切家族に知らせなかったというから 閉ざされた口元もここまでするのには、並の根性ではないな…と孫の私に思わせた。晩年はそれでも色々なことを孫の私には話して聞かせた祖母は、あれは いったいなんだったのだろうか?…と、おそらく 残り時間が少ないことと、体力の限界があって 黙していることも疲れたのかまた、または、おそらく、パーキンソンかなにかにかかっていたのだと思うのです。 当時はパーキンソンという診断がつかなかっただけの話であり、パーキンソン病の特徴に、ある時期独白のようなモードに入る。と、父の症状をみて、祖母もそうだったのでは?と思いました。

 父も祖母も口に嗜みのあった人たちでした。 だから 同じ神経の病気にかかったのかはともかく、母かたの親族たちは おおくが 100歳近くまで 神経系を病むことなく 長寿でいれる。また、いれたことは あれは みーんな 発散型 または、愚痴をだらだらか 口から適当に 人を批判し勝手なことを言い、血族集まっては ああだこうだと お互いがお互いを 批判し合い、 ちびくろサンボのライオンがくるくる回って走っているうちにバターになってしまうといったような、もう、みんながバター 同化 同レベル バタバタ そんな感じです。

 バターになり長生きするか。孤高な花となり、神経を病むか。
融合できるケースを知っていたら 教えてください。 どうか。

夏の終わり

 夏が終わりそうですね。
今日からThompson Internationalもスタートしています。

 どんな夏を過ごされましたか? わたしは 課題にしていたカフカの感想文を書きました。
友人たちが二回ほど家に来てくれました。楽しい時間を刻むことが出来ました。
 夏の暑さに加えて、フェンスをつけたりとしたからでしょうか。松の木が一本、元気がなくなり心配してます。 針葉にシャワーをあてて洗う気持ちで水をかけながら、弱っている葉を手でこすりながら落としたり、ゆすったりなんだりもした夏でした。そして トンプソンが帰ってきたので、後ろにある山林の枝をはらったりとしてみました。

 植物、動物は環境の変化で 弱ったり 生き生きとしたりもするから、心が離せません。

 日中は普段一緒にいることの出来ない猫にも たくさん話しかけて可愛がってやると 嬉しいのでしょう。顔が笑っているようにみえます。そして 少し太ります。

 夏が終わってゆきます。
 あれだけ 嫌いだった 秋がそんなに嫌ではなくなって… これも 生きてきた変化の成せるものなのでしょうか。

 また 淡々と毎日をつないで 次はどこの点に向かってゆくのかなと まず あの弱っている木が元気になればいいなと それくらいしか考えられない小さな毎日の積み重ねですが……。



 

 

夏のひとやすみ

 同居人が長い間留守するひとときを、夏のひとやすみと呼んでしまう自分がいる。
自分にとって夏休みとは、お盆の連休ではなくこの時期にあたる。

 家族を持ってしまうと日常に麻痺して当たり前になる日常の繰り返し。それは素晴らしく健康的で良いことの方が多いはずなのだけれど。
 勝手気ままに暮らせる数日というのは、思いのほか肩の荷が下りた気分になる方は多いのではないか。と、思う。

 夏の一人の夜に、カフカの感想文を書こうなどと高尚なことを考えていたスタートが
Netflixの全主導権を得たとたん、日本映画を毎晩楽しみにする始末。カフカどころではなくなっている。

 豊川悦司、綾野剛の「地面師」を瞳孔全開でみ。三丁目の夕日で涙する、そんな夜を毎晩過ごしている。
 
 言い訳ですが 普段できないことをしたくなるのが 夏のひとやすみですもんね。

オダギリジョー

84歳に向かう母が、ある日テレビ番組を観てオダギリジョーが好きだ。と意外なことを言っていた時期があった。
受け狙いの発言と、相手にしていなかったが、意外にも本当にああいうタイプが好きな昭和16年生まれがいるのだ。と、この度驚いたことがあった。

ある夜、ある方、知り合いのMさんから、どうしても予約していた店に来れなくなった人の代理で来てくれないか?とお誘いといいましょうか、頼み込まれる形で電話がありました。
いただいた電話の時間帯からして かなり困っていたのだとお察しするくらいの勢いがありました。
なんていったって、私に電話をする前に打診した人物が、あの元道警の世間を騒がせたIさんという人物だというのが、ちょっと複雑な思いを残しつつ、私たち夫婦の夕食の食べ終わるような夜九時という時刻を見上げながら、お誘いを一度受けた。

トンプソンには、・・・という理由にて明日の晩、わたくしは留守にします。と述べ…
Mさんをよく知っているトンプソンは肩をすくめて、仕方ないな・・・というジェスチャーをし明日の夕ご飯のことをちょっと心配して見せる素振りをみせているが、それは 見て見ぬふりの私。
それよりも何よりも 一応、締め切りのものがあり。それを明日にする予定に置いてしまっていたことに、しまった。と、思い始める自分。
夜、机に向かう。ダメだ あかん。夜はもう、目が使い物にならない自分を恨む。

朝、そうだ、母を代理に行かせよう。と、思いつく。
Mさんは なぜか私の母とも気が合う。いや 私より面白い相手だと思っていることを、常々感じている私は Mさんに 代わりに母を送るが許されるものかと尋ねると大歓迎を受ける。
母はしっかりとお洒落をしMさんのお迎えの車に乗っていくのを、下で子供たちを教えながら窓からその姿を子供たちと一緒に見送った。
中高校生たちからすると 自分の曾おばあちゃんくらいの年齢の人と、それよりちょっと年下くらいのおじいさんが連れ立ってどこに行くのか?と不思議な光景にみえていたと思う。

2人を見送りながら カウンターの窓から眺めて 今更 気づいたことだけれど、母は84歳にもなろうとする 正直言って後期高齢者ど真ん中の人だというのに、まだ洒落っ気がある。なんというかまだ人生の現役感があるのだ。
そして これまた 中高校生も驚くような高級車でスクールの前に乗り付けてきたMさんだって 自分たちのおじいちゃんよりちょっと年上くらいのおじさんなのに、自分のおじいちゃんにはない、生命力を感じたから、みな見入ってしまっていたのかも、しれない。と思った。不思議な好奇心を感じる ひとつの光景だったのだと思う。
その証拠に、「どこへ行くんですか?あの人たちは誰ですか?」と わたしに質問を攻めてくる。
「あの女の人は わたしの母。そして あのおじさんは 私の知り合いの人で 母も知っている人。二人はこれからお寿司屋さんに行くみたいだよ」と ボソリと言いながら、はい! 次のページいくよ~~ と 窓の外へ向かっている注意をこちらに戻す。

 翌朝、昨日は楽しかった?と 母に尋ねると、「あんたの住んでいるところのご近所のYさんって人が大勢プロゴルファーとか接待の人を連れて9席のカウンターのうち7名を占めていたわよ昨夜は。偶然その夜に予約が一緒だったMさんのビジネスパートナーってそのYさんに はじめて紹介を受けて お目にかかったけれど、私が想像していたYさんって人のイメージとは違ったわあ。いい男ねぇ」と言う。
「え??? いい男って あのYさんって人?」と 私は オダギリジョーがタイプと言う口は聞き逃せても、Yさんをいい男ねぇという母の言葉は 聞き直した。

「あなたって…、っとに、ああいう系統が好きなのね。冗談かと思っていたけど」と 聞き直す。

イタリアのチョイワルおじさんを意識した感じの風貌のYさんと オダギリジョーはどこか重なるところがある。

以前、札幌の****という番組に出たことのあるその人は、私たち夫婦が住むあたりの地域では少し毛色の違うタイプ。
フェラーリのエンジンの音が響き渡り、洒落た服装の似合う長めのシルバーヘア。優男タイプの人だよなぁという印象を持つくらいで、自分とは当然、違う世界の人でしかない。
が、母は そのYさんを とっても好みだと言う。
 
 私は亡き父のことを思い、「そんな人がなんで お父さんみたいな人と結婚したのかよく分からない」と呟くと。
「結婚する相手と、タイプの人は当然、違うわよ。 お母さんたちの時代なんてお見合い結婚が大体だったから、自分で選ぶだなんて発想がそもそもなかったもの、それに お母さんはお父さんみたいな人と結婚出来て いい人生だったわぁ」

 結婚する相手と、タイプの人は違う。 それは 確かに 多くの人が胸に抱えている共通の葛藤、意識だと思うが
ここまで 違う人も珍しいのではないか? と 質実剛健を志した父の牛のような容姿様子と、Yさんのバカラグラスのような洒脱な空気感。どうやっても重なる箇所がない。

 でも そこまで違うと、確かに 結婚する人と 好みのタイプは違う。と言い切れる すっきり感はあるか。

 私にも 好みというのは あったような気がする。そうだ あったのだ。
男の中の男タイプ に 憧れを持つ一方、そんな人に尽くし、従い、支えるように 暮らす自分は到底想像できない。かといって 親戚一同が勧めるお見合いの人も どうしても気が進まない。と 右往左往としているうちに 全く 想定外の 人と結婚していた。

 それが人生というやつなのか。あの人 好みだわと その後の人生の中で、そんな人を見かけたときに、まだ言い続けられるためにも
好みの人とは結婚できなかった無念の人は、好みの人に対して夢を持ち続けることの出来る特典が与えられたと思える。

たしか川柳に
 命までかけた女てこれかいな
好きな川柳のひとつにこれがあった。

Listening comprehension

Listening comprehension リスニング力。

これを鍛えるのは、どのレベルでも、残念ながら、大方の人はボンヤリ聞いているだけでは難しい。

私の場合は、目、耳といった感覚器官がエリートと呼ばれる人の半分あたりを位置しているために
、ぼんやり聞いたままだと真の意味を理解するのに紆余曲折、10年くらいはかかるはず。

 耳の良い人は、どうやって音をひろえていくのか分かりませぬが、まあず、CNNニュースなんてぼんやり聞いてたって、何言ってんの?がずうっと続くのみです。

 そんな私が、ニュースの英語を即座に通訳してゆくというクラスに身を置いて。公開処刑されるような思いで、練習を重ねておりまして。 そのさなかで、何度聞いてもわからない拾えない言葉。ニュースの言葉など一語一語全て拾って聞き取るというようなこと日本語でもしない人間がですよ。それをいきなり英語の場合は 全て聞き取れ 一句一句 もらさず通訳するように。との指導を受けているのです。
 はっきり言って、拷問です。
 昨日は 正直言って もうやめたい と真剣に思うほど、落ち込んでました。

 「トンプソンさんは、聞き取りが甘すぎる。ニュースを普段、みてますか?」と先生。
わたし 「みてません」と 言うしかなく そう、言いました。
「え??」 と 絶句する先生は、次の言葉を それこそ 拾えなく・・・
「いえ、あの、流す程度には つけている時もありますが、このような状況下でみるということは ないです」と 私は付け足す。
「スピーカーをつけて聞くと、聞こえてきます。私はそうしています。いま一万円くらいでスピーカー買えますから、ぜひそうしてください。あなたの場合はせっかくすごいリスニング力が育つ環境に恵まれている中にいながら、あまりにももったいないことをしている!」…と、余程腹に据えかねた挙句といった具合のお厳しいお言葉。

一万円のスピーカー かぁ 先生は自己投資につながるけれど… あ 確かトンプソンが持っているな。でも その前に イヤフォンでまず してみるか と、確かに イヤフォンをつけて聞き取ると
アメリカ南部あたりの人の、つながってくる言葉でも、少しずつ、拾えるのは 確かだと思いました。 

 そこまでやって やっとの思いで、人間の発する言葉を 拾いとり、ニュースで羅列される言葉を 出来るだけ多くストックして、その時のために刀を研いで研いで、通訳者の人たちは頑張っていらっしゃる。

 通訳者になる夢など、微塵もないのにそこに席を置いてしまっている自分に問いかけた。

 やれるだけやってみるしかない。と、スピーカーはともかく、イヤフォン繋いで 全て聞き取ってみせる食いつきでやってしんぜましょう。と。☚何語だ☚?

 …と、いうわけで 皆様にもこれを伝えたかったのかもしれません。
聞き取りの精度をあげ、分からない単語は文字を出してその意味を調べて、そして 日本語に訳したものを 次は英語に言い換える。
 これだけの訓練を重ねると、少しずつですが 今より明日、明日よりその後、と、少しずつ少しずつ 伸びてゆくことは、この落ちこぼれの私が保証します。
 
 でも、一つだけ、英語をいくら話せても どうしても その言語を話す人たちに嫌われてしまう人というのがいます。
そういった方は 大方 自分が話すことだけに意識を集中してしまう傾向があるように思います。
 
 リスニング力を上げる目的は 相手の話を聞き取る力を上げたいからなのです。

 どんな込み入った話にもついていける。数字のはなし、政治の話、どんな内容の話も 一語一語 多くを拾えていける自分をつくりたいために、リスニングに力を注いでいると思えば がんばれそうです。

土壌改良 Soil Improvement

やっと、前の家から持ってきたバラたちが花をつけはじめました。
去年は 移植はしたけれど 新しい環境に 無理があったかな。そのまま 置いてきたらよかったかな・・・と申し訳ないことしたなと思っていたバラたちが 今年は咲き始めました。
去年はひたすら土壌改良につとめた甲斐がありました。
土を掘り起こし 石をとりのぞき 網にかけ 堆肥、冬の薪ストーブで出来た灰と腐葉土を入れて作った土を作ることに専念した一年。
それでも
木が2本淘汰された。そして ダメでもともとと思って持ってきた木の数本が新しい土地にあったのか、生き生きと、前よりもぐんっ!と成長してくれたり。
フェンスをトンプソンが建てたおかげで 風の向きが大きくなったのか、これまで花をつけたことのなかった沙羅双樹の木に花がつきはじめたり。
面白い現象が多く起きた。

バラも 咲いた。
一番花は切らないほうがいい。
明日の朝に切り花にしよう。 楽しみだ。

 冷やし中華が美味しかった。

 神宮祭の頃、札幌で好きなお宅を外から眺めるために見回って車を走らすことが恒例です。
札幌市内に、自分で知っている限りの数になりますが、好きだなと思うお宅が5軒ほどあります。

 そちらを毎年、この6月になると どこかかしか見て回る習慣があります。
理由は、お庭のよい季節。今年はどんな感じで励んでいらっしゃるのだろうか。と、参考にしたいのと、自分自身の家事のマンネリ化を避けるために喝をいれる為でもあります。
 
 自分が好きだなぁと思うお宅は、立派な家とかお金がかかっているとかそういうことだけが理由でないような気もします。
 5軒のお宅の中には、ごく普通の一般的な造りのおうちもありますが、5軒が5軒、みなさん、そこはかとなく暮らしを楽しんでいるのがうかがえるそんなお宅たち。

 あるお宅は、渋いグレーのコンクリートの外壁に、黄色(それも選びに選び抜いた黄色、マスタード色 品の良い黄色)を窓枠そして数か所の扉に使用していて、カーテンのタックのとりかたも贅沢にとって窓辺から静寂さを醸し出している。
几帳面な人が住んでいるのに違いないと思う 家周りは、雑草が生えていなく家の前に置いた二つの茶色い甕には、パステルに色づいた花が植えてある。 お庭は、家の持つ静寂な空気に程よく色合いを添える。という具合のタッチ(このタッチ具合がすっごく微妙なのだ)で、淡いのに色味の持ってゆきかたが、これもまた、選んでいるなと思わせる花を選んで植えている。
 センスの良いお宅だなぁと、いつも感心してしまうお宅。 男の人が家周りに関しては主導権を握っていると感じさせる家。 悔しいけれど、男の人のセンスの良い人には 敵わないと思うような人が、世の中には大勢いる。

 もう一つのお宅は、白い壁とガラスと、そしてシルバー色のスチール素材(今風なんだけれど、それだけではない印象を持たせる)を使ったお宅。
白い壁、ガラスで出来た風除室を引き立たせるのに、トロピカルなビビットカラーの花々の鉢植えを毎年、賑やかに飾っているお宅だった。 今年前を通ったら、表札がなくなり、そして目に鮮やかなお花たちは飾られていなく、植木も元気がなく、持ち主を失うと、家は本当に精気を失うのだなぁと思った。

 きれいに、楽し気に、一生懸命に家を、暮らしを楽しもうとしているお宅からは、なにかいい和音が流れてきてついつい走らせている車を停めて見入ってしまう。

 庭仕事が好きではない人もいるから、無理強いは出来ないけれど、土いじりの好きな人のいるお宅は木も花も嬉しそうだ。全てのものは生きているんだなぁと、風も生きているのではないか…と思うほど、風の向きで、対流で、木の成長も変わったりするのを目の当たりにみると、生きる、成長する、そして終わりを迎える という絶対の真理を、小さな小さな 庭の中の小宇宙で、体感できるのだから。

トモダチ

夏の気温があまり上がらない太平洋沿いにあるその町で、わたしスミコとイタさんは育った。
中学2年の時に一緒のクラスになり、いつとはなしに友達になれていた。
これもまた、いつとはなしにとしか言いようがないのだけれど、
ある時から母親への反抗から突然に不良少女を目指すことに陶酔した中学校時代のわたしは、混沌とした時間の中に入り込んでしまい、灰色の砂の中にいるような毎日の中で、学校といえば海辺からあがってくる霧の潮の匂いと、そして わたしに対して悪意のない口調で話しかけてくる人の少数派であったイタさん。その二つの記憶くらいしかないのだ。
自分自身は灰色の粉の中に埋まっていたにも関わらず、いや そのどうにもならない存在の中にいたからこそ、彼女の放つ明るい粒子を、わたしは学校にいるときは目で追いかけていたのだと思う。
おそらくその彼女に寄せるわたしの好意の具合が彼女にも通じたのか、彼女もわたしを主な友達グループの他、ときどきかまう人というように扱っていた。

彼女とどうやって友達を続けていられたのかが、分からないほど中学校時代のわたしは荒れていた。どうやって軌道修正をはかっていいものか全てのものから脱線してしまい。気持ちは暗いもの暗いものへと吸い込まれるように、学校外の色々と家庭に問題を抱えた友達といつのまにか付き合うようになっていった。

それでも、昭和のその時代は学校へ行かないなどという選択肢はなく、とりあえず学校へは行かなければならない。学校へ行くとイタさんがいた。
ときどき、仕方がない不良のスミコにかまってやるかという具合に、イタさんはわたしに話しかける。そんな関係であったと思う。
その話しかけは
なんであんな人たちと付き合うのさ やめなさい。との言葉だったり、
円美がさぁ突然学校にラジカセ持ってきて、昼休み窓辺に座って、外をみながら松山千春の「恋」を聴きだしたんだよ、ちょっと・・・あれ、どーしたんだべか。という話を聞かせてくれたり。
もう問題ばかり起こすあんたなんか嫌いだと意思表示をするべく、わたしを徹底的に避けてはみるが、結局それでも 最後は スミコと話しかけてきてくれたイタさんはあれ、きっとまぁ、よほど前世でも縁のある相手だったのかもしれないと思ったりする。

わたしの学力は、公立高校は無理だろうというくらい低下していたはず。というか勉強をいっさいしなかったわたしがなぜに公立高校に行けたかというと、ある日イタさんが「スミ、高校どうすんの?」 と私に聞いてきたことが関係している。
なにも考えていなかったわたしは、「え?高校?うううん 私立のO谷はちょっと怖いし、おそらくV高校くらいしかいけないんじゃないあたし」と、答えた。

イタさんは真面目な顔をして、「スミコさぁ、ちゃんと真面目に考えないとダメだよ。自分の進路。あたしはさ、お姉ちゃんは頭いいからS高に行けたけれど、そこは自分は無理だと思う。でも私立はお金かかるし、やっぱり公立じゃないと母さん父さんに迷惑かけるし。それにあんたさ、Vなんて行って女ばっかで楽しいと思うかい?一緒にH高いこうよ。そして一緒に青春しようよ」
「へえ そうなんだ・・・H高ってあのH高?楽しそうだね・・・ イタさんそこに行くんだ」と、親の懐具合も考えている中学生ってすごいな。と、感心しながらわたしが言うと
「スミコも目指せばいいっしょ」と、いとも簡単なことだと叶いそうに言った。
その簡単そうに無責任に言ってのけたのは、本当は赤いジャージの裾を少しめくって足首をみせることに神経を集中させていたからであったのだろう。けど。

テニス部での練習の時に同じグランドで練習するサッカー部の松村君の目にどう映るかということに最近のイタさんは熱心であり、新調したてのプーマの赤いジャージの裾をいじくりまわしている。
・・念入りにめくり具合を気にしてこれでいいか?とわたしに何度も尋ねる。なぜにわたしだったかというと、同じテニス部仲間では具合(ぐつ)が悪く、そしてどこかでわたしの感覚というものを、イタさんは認めていたのではないか?と、大人になったいまいつか機会があったら聞いてみようと思って、忘れる。
と、その趣旨のことが主だった会話であった中での、その何気ない一言が私の心に何かの火を点けた。
わたしは母に、前後の説明もなく家庭教師をつけて欲しいと頼んだ。
わたしのことをもう見捨てつつあった母は、どうせすぐ辞めるんだろうけどと期待を込めずに家庭教師を探して、翌週から家庭教師を生業としている女の先生が来てくれた。
家庭教師の先生は面白い女の人で、その先生が来るのが楽しみになっているうちに少しずつ勉強はおそらくしていたのだろうと思う。そうこうしているうちに学校外の人たちとは会うこともなくなっていた。
春、イタさんと同じ高校に行けることになり、嬉しかった。

久しぶりに春の陽ざしを感じたわたしは、このままこの光の中にいるような生活をしてみたいなと初めて自分の意志でそう願った。

高校ではイタさんと同じクラスになることはなく、それぞれがお互いの世界を築いていった。
やっとわたしの世界にも色彩が戻り始め、美術部にはいった。
相変わらずイタさんはテニス部で、いつも明るく友達に囲まれる高校生になっていた。
テニス部の部長なんかも2年の時には務めていたと思う。
団体行動は苦手で、いつも一人でいるわたしに、廊下ですれ違う度にイタさんはちょっかいをかけてきてくれた。
そんな人間と美術というのは大変相性がよくのらりくらりと絵を描くという隠れ蓑に身を隠しながら、展覧会へ出品したりし、また学校外の人たち(この時期は東京の講習会の際に出会ったような人たちと文通や電話、またやりとりをしながら)高校での時間を過ごしていた。高校を終え東京の女子美というところへ出発した。
イタさんは 親が認める国立は無理だと思うから看護の道にいくよ。と、一大決心をしてお母さんの実家のある青森の看護学校に向かった。

18.19.20歳という娘盛りを競い合うように帰省がお互いにあうたびに、他の2人の友達とあわせて時を消費し。
お互いに それぞれに過ごす街での時間のなかでどれだけ色々なことがあったかを発表するのに忙しい夏があり冬があり、とにかく休みのときは自分のことを知らせなくてはと集まった。わたしは中学、高校という場所を出てからあれほど嫌っていた団体行動が嫌いでなくなっていた。
わたし達はある夏に突然札幌に出てすごくきれいになったノリちゃんに対して、羨望と嫉妬と入り混じった感情を持ちながら、それでも彼女のもつオーラ、その性の精霊とでもいうのか彼女をおおう、そのようなものに反感をおぼえながらも、魅了された。

「あの時の、ノリちゃん、・・・っとにきれいだったよねぇ」と、わたしのベッドに寝ころびながら横の机で勉強しようとしているわたしに語り掛ける。
25歳になったわたしとイタさんは、わたしの実家の部屋にいた。
「スミ。これさ みたことある?」とわたしにある雑誌の広告をみせる。

あなたもこの香水で意中の人を夢中に。

「このフェロモン香水。これさ どう思う」とイタさんは真剣な表情でわたしに聞く。
どう思うって・・・ そんなの情けないと思う。とも、その真剣な口調に対しては、言えなく。 
「ああ、それね、他の雑誌にも結構宣伝しているよね」と、答える。

「…これさ、これを 一本、半分ずつ買わない?」
「え??」
「ずっと気になっていたんだけど、なんか一本そのまま買う気になれなくってさ」

「ええ!ヤだよ~~ そんなの 買う人の気が知れないって 思うようなもの。あたしずっと思っていたもん。あんたそんなもん買ってどうすんの?」
「スミさあ あたしたち もう25だよ。25といえば立派にもう旬は過ぎている年だよ。あたしに彼氏いたのいつだったか覚えてる?」
「あの青森の看護学校に行っていた時に付き合っていた人と婚約までいったのに婚約破棄したときだから・・・だから たぶん ええっと かれこれ4年ほど前?」
「そーだよぉっ。この4年 まぁったく仕事とアパートと あと海外旅行。それだけの生活だけ送ってる間に4年過ぎたわよ…。で、あたしに足りないのは、多分このフェロモンっってものなような気がしてきてさ。だから彼氏が出来ないのよ」

「…て、いうか。あんた 高給取りなんだから そんなもの自分で一本買いなさいよっ」とわたし。

「それが、なんか一本そのまま買うのは惜しいような気がするのはなぜでしょうか。なんか 値段だけみればそんなに高くはないのに。一本そのまま買う気になれない。なぜだろう・・・」ともう一度広告の細かい字をすくい上げるように読みとるイタさん。成分はなんなのだろうかと呟きながら。

「成分よりもなによりもさ… その香水つけていると、もし、相手にわかったら、なんかとてもばつの悪い思いするんじゃないか? そこでうまくいくものも うまくいかなくなるんじゃないの。 それにさ あたしだったら そんな香水に惹きつけられてきた相手と思うと そこでもうバカにしてしまう気がするのだけど。普通の香水買った方がいいんじゃない?あのシャネルとか結構いいのあるっしょ。ポアゾンはだめだわ。あれ嫌いだって昔付き合っていた人が言ってた」

「あんたはいいよ。スミはさ昔っから、なんか大した努力もしていないのにいっつも男の人が周りにいたもんなぁ。それでも、こういっちゃなんだけどノリちゃんほどの美貌はさわたしたちは望めないゆえに、こういうの買ってなんとかなるもんなら、やっぱりこの数年だと思うよ。勝負は」
「ちょっと!あたしまで仲間に巻き込むのやめてよっぉ。・・・あなたの場合、フェロモン香水よりなにより、あの服脱いで、そのままの形状にして翌日着るとか。その辺りに問題があると思うんだけど!」と、美人でムードたっぷりのノリちゃんの話をされて、きっとおそらく沈めていた嫉妬心がむくむくっと蘇ってしまったのか・・・勉強机から、南西に向いた自分の部屋の午後の陽ざしで温まったベッドのブランケットの上にずっと寝ころんだまま話すイタさんへ反撃する。

25歳になったわたしは、東京の学校へ行った後、3年ほどした仕事を辞めて、親のすねをかじって一か月後に一年の海外留学に行くことになっている。それには少し勉強をするべく自宅で毎日机に向かう日々を過ごしていた。そこに時々、青森の看護学校を卒業し、地元の大きな病院で働いていたイタさんは顔を出して仕事場の話や、雑談をして帰る、お互いに生まれ故郷を離れて暮らした時間を取り戻すかのように、この半年の間、よく会っていた。

ある日私たちは、たまには外に行って焼き鳥を食べに行こうかと
5時から開店するその焼き鳥屋へと
まだ陽のある夏の夕暮れどき、西日に向かって二人並んで歩いていた。
私たちの前に、カップルが歩いていた。後ろ姿から、男の方が若いと分かるカップルだった。
なぜ男の方が若いという印象を受けたのか。
西日が眩しかったくせに、二人の頭皮がわたしの目にはよくみえた。
男の人は生まれたての頭皮をしていて
女の人は何度も毛染めを行ったような頭皮をしていたから。それだけのことでわたしは女の人のほうが年上だなと勝手に思ったのか・・・

小さな町の繁華街は一か所にまとまっていて。私たちは仕方なく同じ方向へ進む形とで歩き続けた。
女の人の白い手がからみつくように相手の手を握りしめる。
別にカップルとして自然のことなんだろうけど、なぜに 爽やかでない空気をこの二人から感じてしまうのだろうか・・・ 
それは、きっと この不思議な匂いのせいか。と、わたしはそう思うことにしてカップルの後ろを歩いていた。

なんだろう この匂いは。と 鼻を上に向かせて 嗅ぎ取ろうとする。

ああ これか。とわたしは思った。 わたしは頭は悪いくせに、妙に勘だけがいい子で 幼い頃に、婚期が近づいている女の人がわかったのだ。
婚期が近づく女の人は、みないい匂いがした。
花の匂いとでもいうのか、とてもいい匂いなのだ。
実家は昔、店と家が一緒になっていた。それなりの人数がいたその環境の中、若いお姉さんたちもたくさんいてその中でお嫁に行く人たちが毎年誰かはいた。 そのお姉さんにむかって お姉さんお嫁にいっちゃうんでしょ。と何も知らないわたしが言うから、大人たちはすごく驚いた。
前にいる女の人からは、その匂いではなく、人工的ななにか気持ちの悪い匂いがした。
これは恋をしている女の人から放つものではなくて・・・ また こういっては失礼だけれど 花の盛りのオーラが放つその匂いでもないのだ。
でも それに疑似しようとしているような不自然な匂い。これは
なんなのだろうか・・・
と、 うなぎ屋に入っていく二人を目で追いながらぼんやりと考えていた。

イタさんとわたしは焼き鳥屋の席に座り
「スミ。あたし、あの香水買うのやめるわ」と、またもやイタさんは真剣な顔で言った。
「あら。突然どして?」
「あの前歩いていたカップルいるっしょ。 あの女の人の匂い、あの香水の匂いだよ」
「えええ? あんたどーして知ってるの?」
「実はさ、ある先輩が持っているっていうから少し嗅がせてもらったんだ。間違えない。その匂いだった」
「うあ・・・ センセーショナル・・・ えええ そんなことってあるんだぁ」と なかなか うまい言葉が出てこないわたし。
「・・・同性に分かってしまうというのも なんかみじめったらしい部分もあるし。またさ 人工的なものってやっぱ。よくないわ。あたし それよりも 煙草止めることにする」

イタさんは看護学校でおぼえてしまった煙草を、これを機に止めると宣言した。

わたしたちは、ここに来るまでに一体どれだけの小さな決断を繰り返してやってきたのか。
その都度その都度、人からみると滑稽にみえるかもしれない決断をしながら前に進んできた。
それに付き合って時を共にしてくれた相手をトモダチと呼ぶのなら
まぎれもなく、わたしとイタさんはそのトモダチなのだな・・・と思った。
同じ程度の知能で同じ程度の境遇で、同じ町に同じ程度の運命をもって同じ時代に生まれてきてくれたイタさんに感謝した。

これから どれだけのことを少ない経験値で乗り越えてゆくのか分からないけれど。そして これからもしかすると違う方向に向かい疎遠になっていくのかもしれないけれど…と 前に座りメニューを選ぶイタさんをみつめる。

30年後の自分たちは 年金大改正に備える本 などについて語っているのかもしれない。
でも 中学のときは受験の話しをしてくれ、25歳のときはフェロモン香水について自問自答を重ね、結局 煙草をやめようという結果に至ったのが わたしたちの時間だった。