外回りの掃除

台風が長引き、少し弱まった9月1日にエイヤッ!と、中部国際空港への飛行機に乗りました。

そして、念願だった岐阜の郡上八幡で郡上祭り、飛騨高山を拠点に富山の八尾、おわら風の盆をみてまいりました。

岐阜県は個人的にとっても好きなところです。…なんていったって 大好きな綾野剛さんの出身地でもあるし>m<

さて、なぜに岐阜の街並みは大体 どこもそろって美しいのだろうか。と、思うことに
これは外回りの徹底した清掃のおかげなのではないか? と、朝の散歩をしながら色々なお宅の前を通っても、ほとんどの家がピシッと 家のまわりに雑草を生やすことなく、ゴミなどは無論あるはずもなく、落ち葉一つ落ちていないという状態を保っています。下手をすると水をまいてスッキリとしているお宅までみあたります。

こういう手当をしているお宅からは、家のお金のかかり具合とは関係なく実に立派な雰囲気が漂ってくるような気がします。

札幌で、住みながらも不思議に感じて仕方のないことは、どーして 大邸宅と称されるようなお宅で雑草を生やし放題にしても平気でいれる家が多いのだろうか。ということです。
店を構えていても 店回りの清掃に時間をかけているところは 光り輝く宝石のように目立ちます。普通は逆だと思うのですが…。

なぜだろう なぜ岐阜や他の多くの県の人たちに出来て、北海道 札幌の一角の街並みの人たちに出来ないこの差は何なのだろうか。と

家の教育、土地の風習を 北海道人は 受け継がなかったので、開放的だとよく称されます。
開放の自由とひきかえに 外回りをきれいにするという意識が身につかなかったのかな。に、しても もったいない。

関西の友人は、朝起きたらまず、家の前を掃くように親からの手伝いを言いつけられたと言っていました。
その差なのかもしれません。身につくには時間のかかるものかもしれません。が、身につけようと意識したら身につくものであると信じて
朝 2日に1回は 家、店の前の雑草をとり、掃き、水をまく。時間にすれば10分というところです。

女ざかり

 円山動物園と北海道神宮の間の裏山道に抜けるあの道を、ゆっくりと車で降りてきていました。
球場のあたりの雑木林の中を小さな子供を連れて歩いている女性がいました。
遠目から、銀色のスカートをはいているのが映りました。 銀色?と 自分の目を疑いました。

 銀色のロングスカート、けっこうボリュームのある。 うっそでしょ?…と、自分のファッションの常識範囲の中では受け入れがたく、近寄りながらもすんなりと受容機能が働くまで時間がかかりました。

 いくら老眼が進み、運転用の眼鏡は必要ないと言われた自分の目でも、それこそ目を疑う気持ちで、信号に近づく彼女に近づいてきました。

 運のよいことに車道が赤になりました。車を停めて(とめて)彼女をゆっくりとみることが出来ました。

 本当に銀色の長いスカートを身に着けていました。遠目から見たときは、どんなイカレタ感じの人がそんな無謀なファッションをしているのだろうか。と、一瞬拒否反応の動いた目でみたその女(ヒト)は、とても美しいひとでした。
 ファッションが好きな人なのでしょう、シルバーに光り輝くたっぷりとしたスカートに、白いぴったりとしたTシャツに白いベースボールキャップ。小麦色の焼けた肌は若々しく、小さな子供の手をひいて颯爽と歩いて行きました。

 銀色と、白と、そして小麦色の粒子が目の前を爽やかに、その暑い空気の中を通り抜けるように去っていきました。

 私はその粒子を素直に目で追いました。 爽やかで、美しく、そして ああ 女の盛りだなぁ と 首を横にしてまでもうっとりと眺めていました。 車道は青になっていたのでしょうか。 後ろに車がいなかったから良かったものの、クラクションを鳴らされていたのかもしれません。それくらい長い間、私はうっとりしていました。

 30代の女性は、思いっきりお洒落を楽しめばよい、そして自分の女の盛りを十分に享受した方がいい。と、その季節を過ぎてみると本当に心からそう、思います。
 30代はきっと色々と大変なこともあるかと思います。思い悩むことも多い季節であるだろうし、ミクロにみると苦悩に満ちた毎日なのかもしれません。
 おそらくおそらくですよ…その苦悩も30代を美しくさせる美容液に繋がるのかもと思います。

 苦悩に満ちた50代は心配になるけれど、葛藤に苦しむ30代というのも影が光を強調するようでいいものなような気がします。

 全て光のあたる面だけで生きてゆこうとする人にも、屈折した考え方しかできないと、自分に悩む人にも、30代は公平に与えられ、その季節の中で光と影をきれいに美しく描いていける時にいるのですよ。と、私などメガホンを使って言いたいくらい。
お洒落して、美しくして、私たちの目を楽しませてください。 そうすると みている私たちも楽しくなって あら あれいいな 買ってみようかなとか思ったり。 社会全体が美術館のようになればいいのになぁと きれいなものをみると嬉しくなるもんですよ。
 

 

 

秘すれば花

 けっこう深刻な歯の治療を始めて、8年近くが過ぎようとしている。
 時間のかかるもので、先生との出会い、そして手術への決断等、また時間をおきながら治療を進めていかなければならなく、気が付くと、父が亡くなってからと同じくらいの月日が経っている。が、これもやっと10月くらいには、ひと段落つく希望が生まれ、気持ちも少し前向きに明るくなりつつある今日この頃です。 8年近くもずぅーっと暗い気持ちでいたわけではありませぬが、まぁ 気持ちが晴れ晴れとしたということは数えるくらいしかなかったのでは?と、ここにきてみて振り返ると けっこう身体的にシンドイものでした。

 その月日のなかで 大病をした人の気持ちに、ほんの少しとは自戒しながら、それでも少し寄り添うことのできた気もし、また、これは ある発見のひとつに、歯の治療過程にあたり見た目がどうとかこうとかよりも、口内の違和感から自然と口が重くなり、話し切る自信がなくなることから、自ずと黙る 言わない。という行為に繋がりました。

 言葉足らず、情報伝達不足は仕事のうえで大変な失礼にあたることは重々承知していますが、プライベートでは喋らないということは、これはとても大切な行為だったのではないかと… いいだけ無駄にだらだらと垂れ流しにしていた過去の発言をもう一度かき集めて 何かの袋にいれて どこかへ 捨ててしまいたい。
いや! 無かったことにしたい。と、口から出た言葉の大切さに気付くのが歯の治療と共にというのが、情けなくもほんと、そうでありました。
かといって こうやって どうでもいいことを書きつらねヒンシュクをかってしまう自分はとめられないのですが。
こういう人を自己顕示欲、自己主張が強いと言ってしまうのです。おそらく。

 池波正太郎さんという作家が晩年無口になったといいます。これは病気をなさってからとまた、歯の具合が悪くなってから人と話すことが億劫になり、不機嫌なことが多く、同時に寡黙になられたとか。

 池波さんくらいのヒトなら いくら話されても、ありがたく多くの人は傾聴したでしょうが、普通の人は少し黙るくらいでちょうどよいのでは。秘すれば花とは こういう場合に使ってもよいのでしょうかと思いました。

 特にお酒の入ったときとかは、お酒の入っていない時よりついつい滑らかに出てきてしまう言葉を 70%くらいまで抑えて削り、人の話に耳を傾ける。自分自身では少し物足りないくらいの…、そういう行為に努めたいものです。 それが自然に出来るようになればいい ああ 出来るようになれますようにと祈るばかりですが。

 思い起こせば、人間関係のなかで友人だと思っていた人に対する賛同できない点、または感性の違いからくる不愉快な感情などを口にしてどうするのか?と、これまでの自分なら、言わないとギクシャクしてしまうと、相手に直ぐに深く考えもせず伝えたような行為も、口にするのも面倒だと思っているうちに、いやまてよ、言ってギクシャクするくらいなら言わないでギクシャクしていた方が余程良いのではないか? と、そのうちグレーのゾーンに落ち着き、ああ 言わないでよかったのかもしれない…と、最終的には至ってしまうことが、ずっと口の重い人でいれる利点だと思います。
 
 そして 黒でもなく白でもない振る舞いを、生まれて初めて意識して試みると、あれ? これって 自分もおそらくある人からそういう扱いゾーンにいたことが多々あるのでは? と 白と黒としか知らない自分からすると愕然と、ハッ!と背筋が寒くなり、精神的にもゆっくりとブロウが効き、改めて自分の言動を反省する気持ちになりました。

 しかし不利な点は、口の重い人は どこかで発散をしないと、なにか神経の病にかかってしまうのではないか? とも思ったりもします。

 発散型でないと神経を病む。 これが私の出した結論でした。

 父の方の血統がそういうタイプが多く。決して人に自分の心のうちをみせない。曝け出すことを恥としている。なんだか イギリス王室の掟のようなことを信条としてました。 私の知る限りでは父の母、祖母が特にそういう人でした。
美しい人でした。そして柔和な顔で 祖父の仕事に一役も二役も買うことの出来る よく出来た妻であり 母でありました。
祖母の口癖は、みっともない真似は例え、夫にも子供にもみせたくなかった。と、なぜか 晩年 孫である私に よく昔のことを話して聞かせてくれました。

 他人の悪口など口にするのはみっともない。そして 自分の実家の恥となるようなことは一切家族に知らせなかったというから 閉ざされた口元もここまでするのには、並の根性ではないな…と孫の私に思わせた。晩年はそれでも色々なことを孫の私には話して聞かせた祖母は、あれは いったいなんだったのだろうか?…と、おそらく 残り時間が少ないことと、体力の限界があって 黙していることも疲れたのかまた、または、おそらく、パーキンソンかなにかにかかっていたのだと思うのです。 当時はパーキンソンという診断がつかなかっただけの話であり、パーキンソン病の特徴に、ある時期独白のようなモードに入る。と、父の症状をみて、祖母もそうだったのでは?と思いました。

 父も祖母も口に嗜みのあった人たちでした。 だから 同じ神経の病気にかかったのかはともかく、母かたの親族たちは おおくが 100歳近くまで 神経系を病むことなく 長寿でいれる。また、いれたことは あれは みーんな 発散型 または、愚痴をだらだらか 口から適当に 人を批判し勝手なことを言い、血族集まっては ああだこうだと お互いがお互いを 批判し合い、 ちびくろサンボのライオンがくるくる回って走っているうちにバターになってしまうといったような、もう、みんながバター 同化 同レベル バタバタ そんな感じです。

 バターになり長生きするか。孤高な花となり、神経を病むか。
融合できるケースを知っていたら 教えてください。 どうか。

オダギリジョー

84歳に向かう母が、ある日テレビ番組を観てオダギリジョーが好きだ。と意外なことを言っていた時期があった。
受け狙いの発言と、相手にしていなかったが、意外にも本当にああいうタイプが好きな昭和16年生まれがいるのだ。と、この度驚いたことがあった。

ある夜、ある方、知り合いのMさんから、どうしても予約していた店に来れなくなった人の代理で来てくれないか?とお誘いといいましょうか、頼み込まれる形で電話がありました。
いただいた電話の時間帯からして かなり困っていたのだとお察しするくらいの勢いがありました。
なんていったって、私に電話をする前に打診した人物が、あの元道警の世間を騒がせたIさんという人物だというのが、ちょっと複雑な思いを残しつつ、私たち夫婦の夕食の食べ終わるような夜九時という時刻を見上げながら、お誘いを一度受けた。

トンプソンには、・・・という理由にて明日の晩、わたくしは留守にします。と述べ…
Mさんをよく知っているトンプソンは肩をすくめて、仕方ないな・・・というジェスチャーをし明日の夕ご飯のことをちょっと心配して見せる素振りをみせているが、それは 見て見ぬふりの私。
それよりも何よりも 一応、締め切りのものがあり。それを明日にする予定に置いてしまっていたことに、しまった。と、思い始める自分。
夜、机に向かう。ダメだ あかん。夜はもう、目が使い物にならない自分を恨む。

朝、そうだ、母を代理に行かせよう。と、思いつく。
Mさんは なぜか私の母とも気が合う。いや 私より面白い相手だと思っていることを、常々感じている私は Mさんに 代わりに母を送るが許されるものかと尋ねると大歓迎を受ける。
母はしっかりとお洒落をしMさんのお迎えの車に乗っていくのを、下で子供たちを教えながら窓からその姿を子供たちと一緒に見送った。
中高校生たちからすると 自分の曾おばあちゃんくらいの年齢の人と、それよりちょっと年下くらいのおじいさんが連れ立ってどこに行くのか?と不思議な光景にみえていたと思う。

2人を見送りながら カウンターの窓から眺めて 今更 気づいたことだけれど、母は84歳にもなろうとする 正直言って後期高齢者ど真ん中の人だというのに、まだ洒落っ気がある。なんというかまだ人生の現役感があるのだ。
そして これまた 中高校生も驚くような高級車でスクールの前に乗り付けてきたMさんだって 自分たちのおじいちゃんよりちょっと年上くらいのおじさんなのに、自分のおじいちゃんにはない、生命力を感じたから、みな見入ってしまっていたのかも、しれない。と思った。不思議な好奇心を感じる ひとつの光景だったのだと思う。
その証拠に、「どこへ行くんですか?あの人たちは誰ですか?」と わたしに質問を攻めてくる。
「あの女の人は わたしの母。そして あのおじさんは 私の知り合いの人で 母も知っている人。二人はこれからお寿司屋さんに行くみたいだよ」と ボソリと言いながら、はい! 次のページいくよ~~ と 窓の外へ向かっている注意をこちらに戻す。

 翌朝、昨日は楽しかった?と 母に尋ねると、「あんたの住んでいるところのご近所のYさんって人が大勢プロゴルファーとか接待の人を連れて9席のカウンターのうち7名を占めていたわよ昨夜は。偶然その夜に予約が一緒だったMさんのビジネスパートナーってそのYさんに はじめて紹介を受けて お目にかかったけれど、私が想像していたYさんって人のイメージとは違ったわあ。いい男ねぇ」と言う。
「え??? いい男って あのYさんって人?」と 私は オダギリジョーがタイプと言う口は聞き逃せても、Yさんをいい男ねぇという母の言葉は 聞き直した。

「あなたって…、っとに、ああいう系統が好きなのね。冗談かと思っていたけど」と 聞き直す。

イタリアのチョイワルおじさんを意識した感じの風貌のYさんと オダギリジョーはどこか重なるところがある。

以前、札幌の****という番組に出たことのあるその人は、私たち夫婦が住むあたりの地域では少し毛色の違うタイプ。
フェラーリのエンジンの音が響き渡り、洒落た服装の似合う長めのシルバーヘア。優男タイプの人だよなぁという印象を持つくらいで、自分とは当然、違う世界の人でしかない。
が、母は そのYさんを とっても好みだと言う。
 
 私は亡き父のことを思い、「そんな人がなんで お父さんみたいな人と結婚したのかよく分からない」と呟くと。
「結婚する相手と、タイプの人は当然、違うわよ。 お母さんたちの時代なんてお見合い結婚が大体だったから、自分で選ぶだなんて発想がそもそもなかったもの、それに お母さんはお父さんみたいな人と結婚出来て いい人生だったわぁ」

 結婚する相手と、タイプの人は違う。 それは 確かに 多くの人が胸に抱えている共通の葛藤、意識だと思うが
ここまで 違う人も珍しいのではないか? と 質実剛健を志した父の牛のような容姿様子と、Yさんのバカラグラスのような洒脱な空気感。どうやっても重なる箇所がない。

 でも そこまで違うと、確かに 結婚する人と 好みのタイプは違う。と言い切れる すっきり感はあるか。

 私にも 好みというのは あったような気がする。そうだ あったのだ。
男の中の男タイプ に 憧れを持つ一方、そんな人に尽くし、従い、支えるように 暮らす自分は到底想像できない。かといって 親戚一同が勧めるお見合いの人も どうしても気が進まない。と 右往左往としているうちに 全く 想定外の 人と結婚していた。

 それが人生というやつなのか。あの人 好みだわと その後の人生の中で、そんな人を見かけたときに、まだ言い続けられるためにも
好みの人とは結婚できなかった無念の人は、好みの人に対して夢を持ち続けることの出来る特典が与えられたと思える。

たしか川柳に
 命までかけた女てこれかいな
好きな川柳のひとつにこれがあった。

トモダチ

夏の気温があまり上がらない太平洋沿いにあるその町で、わたしスミコとイタさんは育った。
中学2年の時に一緒のクラスになり、いつとはなしに友達になれていた。
これもまた、いつとはなしにとしか言いようがないのだけれど、
ある時から母親への反抗から突然に不良少女を目指すことに陶酔した中学校時代のわたしは、混沌とした時間の中に入り込んでしまい、灰色の砂の中にいるような毎日の中で、学校といえば海辺からあがってくる霧の潮の匂いと、そして わたしに対して悪意のない口調で話しかけてくる人の少数派であったイタさん。その二つの記憶くらいしかないのだ。
自分自身は灰色の粉の中に埋まっていたにも関わらず、いや そのどうにもならない存在の中にいたからこそ、彼女の放つ明るい粒子を、わたしは学校にいるときは目で追いかけていたのだと思う。
おそらくその彼女に寄せるわたしの好意の具合が彼女にも通じたのか、彼女もわたしを主な友達グループの他、ときどきかまう人というように扱っていた。

彼女とどうやって友達を続けていられたのかが、分からないほど中学校時代のわたしは荒れていた。どうやって軌道修正をはかっていいものか全てのものから脱線してしまい。気持ちは暗いもの暗いものへと吸い込まれるように、学校外の色々と家庭に問題を抱えた友達といつのまにか付き合うようになっていった。

それでも、昭和のその時代は学校へ行かないなどという選択肢はなく、とりあえず学校へは行かなければならない。学校へ行くとイタさんがいた。
ときどき、仕方がない不良のスミコにかまってやるかという具合に、イタさんはわたしに話しかける。そんな関係であったと思う。
その話しかけは
なんであんな人たちと付き合うのさ やめなさい。との言葉だったり、
円美がさぁ突然学校にラジカセ持ってきて、昼休み窓辺に座って、外をみながら松山千春の「恋」を聴きだしたんだよ、ちょっと・・・あれ、どーしたんだべか。という話を聞かせてくれたり。
もう問題ばかり起こすあんたなんか嫌いだと意思表示をするべく、わたしを徹底的に避けてはみるが、結局それでも 最後は スミコと話しかけてきてくれたイタさんはあれ、きっとまぁ、よほど前世でも縁のある相手だったのかもしれないと思ったりする。

わたしの学力は、公立高校は無理だろうというくらい低下していたはず。というか勉強をいっさいしなかったわたしがなぜに公立高校に行けたかというと、ある日イタさんが「スミ、高校どうすんの?」 と私に聞いてきたことが関係している。
なにも考えていなかったわたしは、「え?高校?うううん 私立のO谷はちょっと怖いし、おそらくV高校くらいしかいけないんじゃないあたし」と、答えた。

イタさんは真面目な顔をして、「スミコさぁ、ちゃんと真面目に考えないとダメだよ。自分の進路。あたしはさ、お姉ちゃんは頭いいからS高に行けたけれど、そこは自分は無理だと思う。でも私立はお金かかるし、やっぱり公立じゃないと母さん父さんに迷惑かけるし。それにあんたさ、Vなんて行って女ばっかで楽しいと思うかい?一緒にH高いこうよ。そして一緒に青春しようよ」
「へえ そうなんだ・・・H高ってあのH高?楽しそうだね・・・ イタさんそこに行くんだ」と、親の懐具合も考えている中学生ってすごいな。と、感心しながらわたしが言うと
「スミコも目指せばいいっしょ」と、いとも簡単なことだと叶いそうに言った。
その簡単そうに無責任に言ってのけたのは、本当は赤いジャージの裾を少しめくって足首をみせることに神経を集中させていたからであったのだろう。けど。

テニス部での練習の時に同じグランドで練習するサッカー部の松村君の目にどう映るかということに最近のイタさんは熱心であり、新調したてのプーマの赤いジャージの裾をいじくりまわしている。
・・念入りにめくり具合を気にしてこれでいいか?とわたしに何度も尋ねる。なぜにわたしだったかというと、同じテニス部仲間では具合(ぐつ)が悪く、そしてどこかでわたしの感覚というものを、イタさんは認めていたのではないか?と、大人になったいまいつか機会があったら聞いてみようと思って、忘れる。
と、その趣旨のことが主だった会話であった中での、その何気ない一言が私の心に何かの火を点けた。
わたしは母に、前後の説明もなく家庭教師をつけて欲しいと頼んだ。
わたしのことをもう見捨てつつあった母は、どうせすぐ辞めるんだろうけどと期待を込めずに家庭教師を探して、翌週から家庭教師を生業としている女の先生が来てくれた。
家庭教師の先生は面白い女の人で、その先生が来るのが楽しみになっているうちに少しずつ勉強はおそらくしていたのだろうと思う。そうこうしているうちに学校外の人たちとは会うこともなくなっていた。
春、イタさんと同じ高校に行けることになり、嬉しかった。

久しぶりに春の陽ざしを感じたわたしは、このままこの光の中にいるような生活をしてみたいなと初めて自分の意志でそう願った。

高校ではイタさんと同じクラスになることはなく、それぞれがお互いの世界を築いていった。
やっとわたしの世界にも色彩が戻り始め、美術部にはいった。
相変わらずイタさんはテニス部で、いつも明るく友達に囲まれる高校生になっていた。
テニス部の部長なんかも2年の時には務めていたと思う。
団体行動は苦手で、いつも一人でいるわたしに、廊下ですれ違う度にイタさんはちょっかいをかけてきてくれた。
そんな人間と美術というのは大変相性がよくのらりくらりと絵を描くという隠れ蓑に身を隠しながら、展覧会へ出品したりし、また学校外の人たち(この時期は東京の講習会の際に出会ったような人たちと文通や電話、またやりとりをしながら)高校での時間を過ごしていた。高校を終え東京の女子美というところへ出発した。
イタさんは 親が認める国立は無理だと思うから看護の道にいくよ。と、一大決心をしてお母さんの実家のある青森の看護学校に向かった。

18.19.20歳という娘盛りを競い合うように帰省がお互いにあうたびに、他の2人の友達とあわせて時を消費し。
お互いに それぞれに過ごす街での時間のなかでどれだけ色々なことがあったかを発表するのに忙しい夏があり冬があり、とにかく休みのときは自分のことを知らせなくてはと集まった。わたしは中学、高校という場所を出てからあれほど嫌っていた団体行動が嫌いでなくなっていた。
わたし達はある夏に突然札幌に出てすごくきれいになったノリちゃんに対して、羨望と嫉妬と入り混じった感情を持ちながら、それでも彼女のもつオーラ、その性の精霊とでもいうのか彼女をおおう、そのようなものに反感をおぼえながらも、魅了された。

「あの時の、ノリちゃん、・・・っとにきれいだったよねぇ」と、わたしのベッドに寝ころびながら横の机で勉強しようとしているわたしに語り掛ける。
25歳になったわたしとイタさんは、わたしの実家の部屋にいた。
「スミ。これさ みたことある?」とわたしにある雑誌の広告をみせる。

あなたもこの香水で意中の人を夢中に。

「このフェロモン香水。これさ どう思う」とイタさんは真剣な表情でわたしに聞く。
どう思うって・・・ そんなの情けないと思う。とも、その真剣な口調に対しては、言えなく。 
「ああ、それね、他の雑誌にも結構宣伝しているよね」と、答える。

「…これさ、これを 一本、半分ずつ買わない?」
「え??」
「ずっと気になっていたんだけど、なんか一本そのまま買う気になれなくってさ」

「ええ!ヤだよ~~ そんなの 買う人の気が知れないって 思うようなもの。あたしずっと思っていたもん。あんたそんなもん買ってどうすんの?」
「スミさあ あたしたち もう25だよ。25といえば立派にもう旬は過ぎている年だよ。あたしに彼氏いたのいつだったか覚えてる?」
「あの青森の看護学校に行っていた時に付き合っていた人と婚約までいったのに婚約破棄したときだから・・・だから たぶん ええっと かれこれ4年ほど前?」
「そーだよぉっ。この4年 まぁったく仕事とアパートと あと海外旅行。それだけの生活だけ送ってる間に4年過ぎたわよ…。で、あたしに足りないのは、多分このフェロモンっってものなような気がしてきてさ。だから彼氏が出来ないのよ」

「…て、いうか。あんた 高給取りなんだから そんなもの自分で一本買いなさいよっ」とわたし。

「それが、なんか一本そのまま買うのは惜しいような気がするのはなぜでしょうか。なんか 値段だけみればそんなに高くはないのに。一本そのまま買う気になれない。なぜだろう・・・」ともう一度広告の細かい字をすくい上げるように読みとるイタさん。成分はなんなのだろうかと呟きながら。

「成分よりもなによりもさ… その香水つけていると、もし、相手にわかったら、なんかとてもばつの悪い思いするんじゃないか? そこでうまくいくものも うまくいかなくなるんじゃないの。 それにさ あたしだったら そんな香水に惹きつけられてきた相手と思うと そこでもうバカにしてしまう気がするのだけど。普通の香水買った方がいいんじゃない?あのシャネルとか結構いいのあるっしょ。ポアゾンはだめだわ。あれ嫌いだって昔付き合っていた人が言ってた」

「あんたはいいよ。スミはさ昔っから、なんか大した努力もしていないのにいっつも男の人が周りにいたもんなぁ。それでも、こういっちゃなんだけどノリちゃんほどの美貌はさわたしたちは望めないゆえに、こういうの買ってなんとかなるもんなら、やっぱりこの数年だと思うよ。勝負は」
「ちょっと!あたしまで仲間に巻き込むのやめてよっぉ。・・・あなたの場合、フェロモン香水よりなにより、あの服脱いで、そのままの形状にして翌日着るとか。その辺りに問題があると思うんだけど!」と、美人でムードたっぷりのノリちゃんの話をされて、きっとおそらく沈めていた嫉妬心がむくむくっと蘇ってしまったのか・・・勉強机から、南西に向いた自分の部屋の午後の陽ざしで温まったベッドのブランケットの上にずっと寝ころんだまま話すイタさんへ反撃する。

25歳になったわたしは、東京の学校へ行った後、3年ほどした仕事を辞めて、親のすねをかじって一か月後に一年の海外留学に行くことになっている。それには少し勉強をするべく自宅で毎日机に向かう日々を過ごしていた。そこに時々、青森の看護学校を卒業し、地元の大きな病院で働いていたイタさんは顔を出して仕事場の話や、雑談をして帰る、お互いに生まれ故郷を離れて暮らした時間を取り戻すかのように、この半年の間、よく会っていた。

ある日私たちは、たまには外に行って焼き鳥を食べに行こうかと
5時から開店するその焼き鳥屋へと
まだ陽のある夏の夕暮れどき、西日に向かって二人並んで歩いていた。
私たちの前に、カップルが歩いていた。後ろ姿から、男の方が若いと分かるカップルだった。
なぜ男の方が若いという印象を受けたのか。
西日が眩しかったくせに、二人の頭皮がわたしの目にはよくみえた。
男の人は生まれたての頭皮をしていて
女の人は何度も毛染めを行ったような頭皮をしていたから。それだけのことでわたしは女の人のほうが年上だなと勝手に思ったのか・・・

小さな町の繁華街は一か所にまとまっていて。私たちは仕方なく同じ方向へ進む形とで歩き続けた。
女の人の白い手がからみつくように相手の手を握りしめる。
別にカップルとして自然のことなんだろうけど、なぜに 爽やかでない空気をこの二人から感じてしまうのだろうか・・・ 
それは、きっと この不思議な匂いのせいか。と、わたしはそう思うことにしてカップルの後ろを歩いていた。

なんだろう この匂いは。と 鼻を上に向かせて 嗅ぎ取ろうとする。

ああ これか。とわたしは思った。 わたしは頭は悪いくせに、妙に勘だけがいい子で 幼い頃に、婚期が近づいている女の人がわかったのだ。
婚期が近づく女の人は、みないい匂いがした。
花の匂いとでもいうのか、とてもいい匂いなのだ。
実家は昔、店と家が一緒になっていた。それなりの人数がいたその環境の中、若いお姉さんたちもたくさんいてその中でお嫁に行く人たちが毎年誰かはいた。 そのお姉さんにむかって お姉さんお嫁にいっちゃうんでしょ。と何も知らないわたしが言うから、大人たちはすごく驚いた。
前にいる女の人からは、その匂いではなく、人工的ななにか気持ちの悪い匂いがした。
これは恋をしている女の人から放つものではなくて・・・ また こういっては失礼だけれど 花の盛りのオーラが放つその匂いでもないのだ。
でも それに疑似しようとしているような不自然な匂い。これは
なんなのだろうか・・・
と、 うなぎ屋に入っていく二人を目で追いながらぼんやりと考えていた。

イタさんとわたしは焼き鳥屋の席に座り
「スミ。あたし、あの香水買うのやめるわ」と、またもやイタさんは真剣な顔で言った。
「あら。突然どして?」
「あの前歩いていたカップルいるっしょ。 あの女の人の匂い、あの香水の匂いだよ」
「えええ? あんたどーして知ってるの?」
「実はさ、ある先輩が持っているっていうから少し嗅がせてもらったんだ。間違えない。その匂いだった」
「うあ・・・ センセーショナル・・・ えええ そんなことってあるんだぁ」と なかなか うまい言葉が出てこないわたし。
「・・・同性に分かってしまうというのも なんかみじめったらしい部分もあるし。またさ 人工的なものってやっぱ。よくないわ。あたし それよりも 煙草止めることにする」

イタさんは看護学校でおぼえてしまった煙草を、これを機に止めると宣言した。

わたしたちは、ここに来るまでに一体どれだけの小さな決断を繰り返してやってきたのか。
その都度その都度、人からみると滑稽にみえるかもしれない決断をしながら前に進んできた。
それに付き合って時を共にしてくれた相手をトモダチと呼ぶのなら
まぎれもなく、わたしとイタさんはそのトモダチなのだな・・・と思った。
同じ程度の知能で同じ程度の境遇で、同じ町に同じ程度の運命をもって同じ時代に生まれてきてくれたイタさんに感謝した。

これから どれだけのことを少ない経験値で乗り越えてゆくのか分からないけれど。そして これからもしかすると違う方向に向かい疎遠になっていくのかもしれないけれど…と 前に座りメニューを選ぶイタさんをみつめる。

30年後の自分たちは 年金大改正に備える本 などについて語っているのかもしれない。
でも 中学のときは受験の話しをしてくれ、25歳のときはフェロモン香水について自問自答を重ね、結局 煙草をやめようという結果に至ったのが わたしたちの時間だった。

Doing Doer

わかったことがある。

もっと若い時にわかっていれば もうちっと違う人生が辿れたのではないか?と思ったことは。

出来ないと嘆く前に すればいいことだらけで世の中は出来ているのではないか?ということ。

汚い皿があれば洗えばきれいになる。庭仕事もひとつひとつ手を動かしてゆくとどこかに光があたる。

ケーキ作りもそうだ。手を動かせばなんとかなるのだ。

頭が悪いと 私はあまりにも自分のことを嘆きすぎた。いったい何を考えていたのだろうか。

頭が悪いと嘆く前に、字を読めばいいのだ。問題を解けばいいのだ。問題を解いて解いて 自分なりの記憶術をどこかに見出して 自分なりに記憶にとどめてゆく方法を見出すようにすること。

机の上で 文字を読み 記述を読み、問題を解いて 出来ていくことが得意ではないと嘆きすぎることに時間を遣いすぎたと思う。

出来なくても、問題に向けて、問題を解く、そうやって愚直でも前に進んでいく。

巷には、字が上手くなければだめだとか、ノートはこう整然と書くようにとか、たくさんの方法が溢れている。が、究極は自分の汚い字でも雑でもなんでも することにあるんだ。手を動かし、机に向かい、一問でも二問でも、いや三問でも問題を解いてゆけばいい。庭でも手を動かした分景色が変わる。

頭がよくなることに汲々とすることはなく、きれいな仕事をすることだけに心を費やすのではなく、することのなかに自分の有りかが生まれるのだろうから、まず、自分なりに、する。

そうすれば、混沌のなかにも生まれるものがある。それでよかったんだ…と開き直ってしまった。

学生の頃にその開き直りがあったのなら… 努力のヒトになれていたのかも、しれない。

これからでも遅くない 残り時間をちらりと考えて、目のサプリをごくりと飲み込む。

おめでとう!

寒さ厳しい北の冬。それでも、朗報がはいってくると心に桜が咲いたよう。

大学へ進学の子たちは、すでのお知らせが入っていました。東京へ神戸へ、そして京都へと飛び立っていかれます。

そして高校、合格発表、昨日でしたね。

お母様たちからの嬉しいニュースは、もう推薦入学の子なら早くにいただいてましたが、公立高校、英語で自己採点だけれど96点。本当は満点狙えたのに。と残念がっていた子もいました。

皆さんにそれぞれの春がやってきたようです。

Thompson Internationalに高校になっても通い続けます。との言葉を各々からいただいた時には、嬉しさと同時に、気持ちが引き締まりました。

刻々と変わってゆく、成長期の子たちへ伝えてゆけるものをもった街角の英語を教える場所。そして安心して通えるスクールであり続けるために出来ること。

無理な経営をしない。教える仕事で蔵は建たない。を常に心にとどめて、まいりたいと思っています。

2024年から 高校生クラスには、月一回、TGセミナーの伊藤伸哉さんに担当をお願いする予定でいます。

伊藤信哉さん経歴

幼少期を米国エバンストンで過ごし、東京大学へ進学。26年間で800人以上の留学生をサポートし、ハーバード大学やMITなど有名校への進学を実現されてきました。

Thompson Internationalでは、月1回、大学受験対策等を受け持っていただく予定です。

 

この小さなスクールにやってきたことで、英語から多くのことへの興味を引き出し、自信と優しさとを持てるそんな人生を送られますように。

いつも この小さな学校で応援をしています。

Thompson Internationalの大人の生徒さんたちは、本当に自信と優しさに溢れた方たちばかりだなぁ…と、はた…と学生さんたちへの想念を語りながら、いま思いました。

あ。そうか…。ご利用くださる大人の生徒さんたちの残照が、子供たちにも伝染してくれている。

そう思えました。

 

縁 繋がり そして 運

昨日、ある方の葬儀に参列させていただいた。

お別れに行きたいと思わせる、そういう方だった。

冷静に考えると、前のスクールの内装の解体工事をお願いしたことが基本にある間柄でしかないことから言えば、告別式に伺うほどの濃さでもないように捉えられるけど、縁のある方で、そして、とても後味の良い気風の方だった。

スクールの荷物を、自分のとこのトラックだしてやるよ。と、空っぽのトラックに荷物を次々と、解体作業の延長のような放り投げるような粗さではあったけれど、積み上げて、数ブロックさきの新設の場所まで運んでくれた。

その後も、鏡を吊るしてくれたり色々なことをしてくださった。

で、スクールの2階に引っ越ししてきた母の住まいの仏壇の下に棚をもちろん有償でお願いした。とても良心的な価格で腕の良い大工さんの息子さんも助手に連れて、その棚は出来た。その後にも、色々なものを金づちと釘で 取り付けてくれたり。 結構大変なこともあったと思うから、それに対して お代をと求めても、こんなんに代金もらったらばち当たるよ。と、一笑して背中を向けた。

そのHさんが、1月29日の少し気温の緩んだ日の朝に、南区にある自分の作業場へ朝7時に行き、そこで亡くなっていた。と、連絡をくれたのは共通の知り合いのMさんだった。

このMさんは、偶然にもHさんの高校時代からの友人で、私も20年前くらいから不思議な縁で繋がっていた。更に、なぜにHさんに解体をお願いする運びになったかというと偶然にも、Hさんは、トンプソンが尊敬して止まない素晴らしい腕を持つ大工さんのH君のお父さんなのだった。

この頃、とてもとても強く思うのだけれど。

人と人との縁が繋がれてゆくときは、ものすごく 強烈な縁を持つ相手が必ず、その渦のなか。というかサークルの中にいて。

私たちは その中でビーズの様に繋がって、お互いの誠意や思いやりや、または 友情であったり、情を交わし合ったりしてゆくのだろうかと。

この数十年を振り返ると、夫との出会いも含めて、自分にすごい影響力を持つ結果となった相手というのは、多くの人々が、お付き合いは考えた方がいいと思う。と、忠告をしてきた。…、と苦笑いとも、それこそ一笑で、吹き飛ばすようにも。いまとなっては、その忠告してくれた方々の多くとは、皮肉にも縁が遠のいてしまった。その付き合いを考えた方がいいと言われた相手の一人は、夫となり人生の山あり谷ありを一緒に過ごしてくれている。そして もう一人のMさんは。自分の人生に多くの影響を与えてくれた人だった。と、いまならハッキリと断言できる。

Mさんは、確かに普通の人の一般的な常識からいくと、お付き合いするには、ちょっと腰がひける相手かもしれない。

バブル経済の真っただ中はバブルの泡の中で生きたような人。と、私が初めてMさんと出会ったときは、その勢いを、バブル景気がはじけた後でもまだ、どこか引きずっていて。その勢いをどこにぶつけてよいのか分からないような様子だった。

でも20以上年の離れたその方は、不思議な縁のある人だった。なにというわけではないが 色々なところで繋がった。また、別に男と女の関係になるはずもないようなこの私を相手に、よく心にかけてくださったと思う。

そして、ある時、日本の法治国家権力に自分は牛耳られるのはまっぴらごめんだ と 運転免許停止となっていた免許証でずっと運転をし続けていたことで、ついに塀の向こう側に1年近く入るということを、人づてに聞いた。

私は、もうMさんとは会うこともないんだな…と 思いながらある日、交差点を歩いていた。

そうすると、向こう側から A子さーーーーん!と 大きく手を振って近寄ってくる人がいる。まるで子供のような まっすぐな笑顔で、近寄ってくる。

私は その瞬間に分かったのだ。 ああ この人との縁は強いんだな・・・ その満面の笑顔をみたときに、全てを諦めたように 降参したように 私は、悟った。

わ! Mさん!! Mさん! 刑務所に入ってしまうって聞いたんですけど、ホントですか???

と 言葉の運び方を知らない私は、あられもない言い方をし尋ねた。その失礼な質問にも少し笑った顔のまま、そうだよ 明日から行ってくるよ。と答える。

えええ!!明日からって なんか普通に スーツケースなんか持って仕事しているじゃないですか。と驚く私に そりゃそうだよ 色々と迷惑をかけてしまうから その前にやることだけはやっておかないと。と。

Mさん、少し時間あるんですか?もし あれでしたら そこでコーヒー そして ケーキ食べませんか。今日は私がおごります。 これまで たくさんMさんにお世話になって、ケーキくらいじゃ足りないけど。行く前に ケーキ!食べましょ! と 苦笑いのMさんと、店内でしんみりとコーヒーとチョコレートケーキを前に話したことを今でも忘れられない。

あちらでじっくりと本でも読んできますよ。と言い残して、それから 本当に1年間、Mさんは姿を消した。

そして 1年が過ぎて数か月くらいした時に、Mさんは同じ笑顔でスクールにふらりと現れた。

背広の肩の線が合っていないことがすごく印象的だった。 痩せたけど いいダイエットになったよ。と、衰えたという印象は全くなかった。

それからの数年は、Mさんは口では言わないけれどきっと、大変だったと思う。まず免許をしばらくとることを許されないから 歩き、公共の乗り物とで仕事をし、これまでのMさんの様子とは一転した。そして自分で会社をしばらく起こすわけにいかず、それでもMさんの能力が欲しい人はたくさんいて、仕事先には事欠かなかった様子だけれど、やはり良い相性のパートナーと出会うまで少々時間がいったように覚えている。

その時、自分なりに何か恩返しができないかと、自分たちは前の中古の家をMさんを通して購入することにきめた。 そうしたら そのことをMさんは 口ではあまり言わないけれど、誰かに 感謝しているというようなことは言っていたらしい。

しかし、その後のMさんの仕事での発展ぶりは、もうそんな私ごときのちっちゃな温情など鼻にもひっかけられないような勢いをみせることとなる。

いま、Mさんの…(言葉は 悪い響きかもしれない)が、地上げ いや 土地開発の土地は、この札幌で多くみられると思う。

この15年くらい Mさんの仕事の仕方、不可能を可能にかえてゆく人って実際にいるんだ。と、驚くほどの交渉力。そして不思議なありかたを みせてもらったと思う。 少し 危険なくらいの 一本の細い綱の上をものすごい集中力で渡ってゆくその姿は、すごい金額を動かしているのだろうけれど、当の本人は全くお金に執着しない。お金を、この人はみていないな…と 驚くことが重なった。

前のMさんは知らないが、刑を終えた後のMさんは、前もそういう性質の人だったのかもしれないが、自我をどこかへ置き忘れたようなくらい、自分で万屋のようなことやってますよ。と、言うくらい、一銭の得にもならないようなことに、目を輝かせて奔走していた。人の問題解決に精出して仲介し、そして、本当にこの人の頭の中はどうなっているんだろう。と、思うくらいの頭脳の回転の速さと、彼独特の交渉能力で多くのことを解決してゆく。

夫がこう言ったことがある。Mさんだけは、自分の知らない日本人だ。と。

20年近く年月が過ぎる中で、なぜか、Mさんとは交流が続いている日常がある。接点などほとんどないはずなのに。いや、土地をめぐっての接点があったのか。そうか、そういう接点があるから繋がっている。いや、それだけでは ないような気にさせるのがMさんという不思議な人だ。

2年近く土地を探している中で 笑いあり、涙ありの思い出の中で、売りに出ていないのに気になる土地がありMさんに相談した。売りに出ていないその土地の持ち主が神奈川に住んでいることが分かった。なんとMさんは色々な情報を(いま個人情報で色々うるさいのに)たどって、神奈川のその土地の持ち主の家まで実費で2回足を運び、交渉してくれた。残念ながらその土地は縁がなかったけれど。その後、また売りに出ていない土地の持ち主を口説きおとしてくれて、今、自分たちの終の棲家がそこに建っている。

そして、気づくと、建築士さんも 10年くらい前にMさんの紹介で知り合ったKさんに繋がり。なんだかわからないけれど、あのずけずけと色々なことをお構いなしに聞いてくる、おかまいなしにしゃべくりまくるMさんが中心に自分の交流関係が回っているような錯覚に陥るくらい… 現在の自分にとって大きな影響、運を与えてしまっている人がそのMさんという人だった。

かなり話が 長くなってしまいながら、一体、何を言いたかったかというと。

一人の個人に影響を与える相手というのは、どんな人にも必ず一人か二人はいるように思えてならない。

それは両親で始まる人もいるし、親との縁が薄い人も、成人まで生き伸びることが出来たら、誰かに必ず会ってゆく。その時、私の場合は、どういうわけか… 正よりも負の要素が多いようにみえた相手の方が後の自分への影響がある相手たちだった。それが果たして、良い運気を運んできてくれる相手とは全面的には言えないかもしれないが、影響を与えてくれて、自分との人間関係を育ててくれた間柄でいてくれた。

それが人との縁なのだと最近、抗わないようにしている。どんなに恋焦がれる相手だって、縁のない星のもとではもう、どうしようもない。そして、どんなに素敵だなと思う相手でも(男女問わず)、相手の方が自分をどのようなポジションに置いておきたいのか。それは必ず尊重しなければいけないと思っている。

そんな中でも、自然なほど、何か強い力で縁のある人というのがいてしまう。それならば… 人間関係はもう、その中で精一杯の誠意と友情を交換し合ってゆけばよいのではないかと。その要となる人を軸にそれに纏わる縁を出来る限り、大切にしてゆけば良いのかもしれない。と、思うことがある。

幼稚園からの幼馴染。小、中学校からの友達も、そういう人たちの一人なのだと最近よく、思う。

HさんとはMさんとの繋がりの中で出会ったような形となり、これまでも続いていた。

本当によくしてくださったと思う。いい思いでしかない。

だから、最後のお別れに行きたいと思うそんな相手だった。

女とは… と、冬囲いの男結びをしながら考えた。

昨日、最後のチャンスと思ったので、庭の冬囲いを雨が降り出す前に始めた。

この庭仕事に使う結び方をなぜに男結びというのだろうか…とつらつらと

寝ないで読んでしまった 林真理子さんの フェバリット・ワン という本を思い出しながら考えていた。

林真理子さんの本は 週刊誌、ゴシップ記事を200枚レベル読むような感覚で一気に読めてしまうのが脱帽物で、なんだかんだと言われながらも、大した作家さんだと思う。

このフェバリット・ワン、書いたご本人も、この本は現代版、野心のすすめです。と、おっしゃっている通り、野心ギラギラではないふんわりとした23歳から25歳になってゆく女の子が、すごい美人でもないけれど ちょっと人から振り向かれるくらいの20代の多くが日常の中で出会うであろう心ときめくことや、甘い誘惑、そしてそれらを甘受することで伴う心の痛みたちにもメゲズ、その都度起こる状況に流されながらも自分の野心、本人の自覚に欠ける欲望の中で毎日を過ごしているというストーリー。

ある日、小さな会社で服飾デザイナーをしているその主人公は会社のスポンサーにこう誘われる。

「金太郎飴みたいな服しかつくらない最近の服の中でも、君の服は金太郎飴の中でもちょっと違う。君だけのクセがある。・・・中略・・・実を言うとね、ちょっとツテがあるんで、うちの服をあの世界的に有名な倉吉潤に見せたんだよ」

主人公は驚く

・・・略 潤さん、うちの商品、パソコンで一点一点見ていてすごくつまらなそうだったけど、作品一点だけ、これ面白いね、って言ったのが君がデザインしたワンピだったんだ。・・・

と会話は続き、彼女の小さな会社のそのスポンサー遠山は、なんとことあろうことか…そのちょっと光る才能があるかもしれないデザイナー夏帆に、自分の金持ちの知り合いにパトロンになってもらわないか?と彼女に誘う。・・・フランス語ならパトロン。ひと昔前なら旦那。いまでいうならなんなのだろう愛人?いや、若さやキレイさが換金される、援助なんとかのパパ?とでも呼ぶのだろうか。

で・・・結局、彼女は その金持ちの40代の妻子持ちからの誘いを頭の中では色々なことを冷静に張り巡らせながらも受けてゆく。もちろん彼女には売れないお笑い芸人の彼氏がいるので、彼女の思い描いたお気に入りの筋書きは、ギリギリのところで夏帆は、その売れないお笑い芸人への深い愛に気づき踏みとどまる。ということのつもりで会ったはずなのだけれど、最初は美味しい食事に誘ってくれる人と自分に言い聞かせ。そのうち高級な服を与えてくれるようになるとデザインの勉強のため。になってゆく。現実に彼女は数十万円の衣服の感触をしっかりと楽しみ、そしてそれをほどいて縫製を確かめ、形と仕掛けを、スケッチブックに写し取っていき。あまりの面白さに、夜明けまでずっと服と格闘してしまった。という件があった。

最終的には奥さんの知るところとなり、挙句に会社にもそれが知れ渡り、彼女は会社を辞めざる負えなくなった。知れた理由は、会社のスポンサーでありその金持ちオジサンを夏帆に自分の勉強のためだからと紹介した遠山が、酔った席で、自分が夏帆に あの子は見所があるから金持ちのスポンサーをつけてやった。と社員の前で言ったのだとか。ありそうな話である。

でも このありそうな話しの中で ありそな、なさそうな話は、

その金持ちおじさんは、自ら慰謝料を夏帆に支払うと申し出てきたのだ。

その額も300万円。

当然、自分では普通の女の子と信じている彼女は怯む。・・・が、どうしてもっと潔癖になれないのだろうかと自分に言い訳しながらも その流れに逆らうことなく 銀行口座に振り込まれたその額を受け取る形となる。

…、と、ここまで荒筋をなぞってみると、実にいやーな女の子だなと大体の人は思うはず。でも、そういう女の子っているよなぁ 実際に・・・。いや そして 自分だってチャンスがあったらもしかしたら彼女のような生き方をしていたのかも、しれない。と、思わせるような主人公。その主人公は、なんとその300万円と自分のなけなしの貯蓄や諸々でかき集めた資本金400万円で、ネットビジネスを始める決意をする。

もちろん服飾のネットでの販売に特化したビジネスを、ガッツと心意気と苦労を重ねて小さな成功を積み上げて次の世界へと上がってゆく。

最後に、あるどんでん返しがあり。その箇所のメッセージが自分では理解をまだ出来ていないのですが。

林真理子さんという作家がこの本の中に落とし込んだこの展開が、妙に私の心に残ってしまったのです。

あの人気シリーズ 最高のオバハン。の中でも 主人公みどりでなくてハルコさんは、若い友人いづみが、不倫相手の男に貸した300万円を、街金を借りてでも、期日までにお金を返すようにという手紙を書けと指示する。そして期日に間に合わないようであれば、会社なり家族に知らせる。と 事務的な感情の入らない文章を送りなさいと。 そしていづみがそれに従った結果、その不倫相手はなんと違う相手とも浮気をしており、その違う相手は質が悪く、チンピラまがいの男を使い、ゆすられていたのだとか。ついにその不倫相手は実の奥さんに泣きつき全てを告白し、いづみのことは 全てを告白したはずの奥さんに、彼女が不倫相手の源とは言えず、お金を貸してくれたある女性。となってしまい。奥さんはなんと利息20万円をつけていづみに謝罪しながらお金を返しに来たという展開。その時に ハルコさんはこんなようなことを言い放つ。

「いい?あなたは本来なら夫の浮気相手として、なじられても仕方のない立場の女なのよ。けれど 今回はお金を貸した立場ということで奥さんが下手に出てきてくれた。しかもお詫びと利息をつけてよ。お金というものはこのように使いたいものね」と。

私は うなった・・・ すごいな 林真理子って。と。

前回 書いた 自分の原則を持っている人っていうのがいる。と、人が見ていても 見ていなくても 自分のそれに従い 生きている人からは すごく教えられた。ということは 正しい。天網恢恢疎にして漏らさず。は、正しいとは思う。が、正しいと思ってのみ生きてきた人が 魅力的な人か・・・といえばどうも違うような気もする自分も、天の網をみながら 昨日の朝は空模様をみながら 男結びを木にしていた。

またもや身内の話になってしまうけれど、お金を使うことが怖くて怖くて、銀行口座から0の数が無くなることを最大の恐怖としたままに90歳になってしまった叔母がいる。

ある時、それを謗る母に、「仕方がないよ。おばさんはさ働いたこともなく、ただただ、愛人宅に行ったままの夫のくれるお金の中から少しずつ少しずつ貯金して、そしてお金を貯めていったんだもの。それをお金の遣い方がキレっないのよねぇ・・・、どうして自分のここぞっていうときに大きく決断できないんだろう?ってったって 無理だよ。そういう訓練をしてこなかったんだから」と、私は言ったことがある。

…そうだ。お金を使う訓練。お金を生かす訓練は、これは これは 本当に残念ながら年をいってからではなかなか間に合わないのかもしれない。

20代の色々なことに傷ついたりしても立ち直れるような時から、もうその訓練の機会はあちこちに散りばめられ用意されている。

 

 

Do you think that the behavior of adults in public places sets a good example for children?

先日、準1の面接試験の練習をしている際に、タイトルの質問があった。

Do you think that the behavior of adults in public places sets a good example for children?

公共の場での大人の振る舞いは子供にとって良い模範となっていると思いますか?

に対して 中学2年生のその男の子は、質問の意味をすぐに理解できなかったらしく

私は例をとって説明を加えようとすると ついつい二人で談議になってしまい 下記のような会話になりました。

「どおいうこと?これ?」とK君。

「大人の振る舞いが子供にとって 模範となるかどうか?ってことなんだけれど 例えば、極端な例だけれど 自分の親がよ まさかのまさかだけれども 500円の収入印紙を購入しようとしてだよ。それが店員さん間違えて5000円の収入印紙を渡したとするよ。それを ラッキー!と思いポケットに入れるような親だったら どうする?君?」

「うううん・・・それは想像したことないからわからないけどさ。でも 僕はね、あ・・・これ 後に問題となるな分かってしまうなというような局面に立たされると想像できる範囲の中だったら、そういうことがあったとしても それを正直に言って 違いますよ。と、言うかな。でも そうじゃないな・・・と判断したら 放っておく」

「わかる わかる それが フツーの考えだと思うよ。でもさ 世の中には立派な人っていうのがいてね。自分の原則に反することは如何なる状況に置かれてもしない。って決めている人がいるんだよ。そういう人は立派だなぁ・・・って、思うことあったな。あたし。 そういう方たちから教えられたと思うよ」

…と、またK君には言わなかったけれど 反面教師からも人は学べるということを。

私が例にとった 上記の人は 恥ずかしながら 血のつながらない(ここは強調しておきたい)親戚のおっさんが ある時、自慢げに 収入印紙500円のものを5000円受け取って儲かった儲かった。と喜んでいたのを見たときに・・・

この人とは君子の交わりはできんなぁ・・・と 子供心にも感じたものだ。

この人 国立大学出たことを菊の紋章みたいに後生大事に生きているようだが… 人というのは なんなのだろうか・・・と 私は妙に哲学的になったことをいまでも覚えている。

子供の感性というのは、大人が思うよりも鋭かったのかもしれない。

…いや、単細胞なおっさんの愚行などは 鋭くなくても 模範とするものではないと明らかに見て取れることであるが。

それなりに生きてくると 世の中には 意図を持っての悪人もいるし。意図しなくても結果として悪となってしまう関係性もあるし。自分の弱さから人を傷つけることも、あることが分かってくる。

その中で、立派だったなぁ あの方は…と いつも光の中で記憶に残る人たちは

自分の原則を持ち、それに忠実でありたい。と思っていた人だったように思う。

自分の両親世代に多く、そういう方々がいた。そして同世代にも、また少し先輩にも、また 自分をふった男の人にもそういう人が一人いた。私は、いまでも彼を尊敬しているし。一生叶わない恋心をずっと抱き続けている、そういうのも悪くないもんだな。…と、思っている自分がいる。