徒然日記:A.M.T
Driving
自分自身の運転は、マイペース過ぎて、ゆっくりすぎて、他者を苛立たせていると思う。とにかくゆっくり。それは自分にとっては人身事故が一番の恐怖であるからです。</p>先日、雪に隠れた道路が凍てついているに違いない朝。
二車線ずつの道路を樹木の分離帯で隔てられている自動車道。下ってくる方からは、左に住宅が連なり、分離帯と反対車線の右向こうには競技場や、テニスコートなどがある道を、私は ゆっくりと マイ軽カーで下ってきた。
あの道は結構、早めにブレーキをゆっくりと踏んでいかないと、冬道は恐ろしいことになる。
一度、時速、それでも40キロくらいの速さで下ってゆき、夏なら当然くらいのところでブレーキを踏んだ。が、止まらない 停まらない・・・ 目の前に横たわっている北一条の雪のない道には、車がビュンビュン飛ばしていた。止まらなかったら、あそこへ突入になってしまう~~~という、あの恐怖から、必ず、雪道はゆるりの速度に早めのブレーキであった。
その朝は おそらく、そのかつての私のような恐怖心を持ちながら止まったであろうらしき車が、大袈裟でもない約90度くらいの角度で信号の横断歩道を越えて停まっていた。</最新のBMW、かっちょいい高級車だった。私はその車の後ろで信号を待った。
信号が青になった。前を向いていないBMWも右に曲がる。
BMWは角度の問題で、北一条の三車線道路の一番外側に一度はいるのが自然の状態だった。
北一条道路の横断歩道が、まず 真っ先に 右に曲がる車を待ち受けている。
横断者が歩いていた。右から左に渡る人であったので、右の車線にいてしまうBMWは歩行者を待たなければならない距離にいた。
しかし、私の位置する真ん中には、まったく人の影もなし。右から歩いて渡ってくる人を待つのも少しばかりおかしい間があった。それになにより、後ろには数台の車が連なっていた。
横断歩道の歩行者が目の前に来るには、結構の間があると判断した自分は、すーーーっと自然な曲線を描いて、北一条通りの真ん中車線にはいりました。
と、いうことは 隣にいるBMWを追い越したというかたちになります。
90度近い角度でのキリキリの停車。最新のBMW。そして追い越すときに感じた人影はまだ50前とみうけられる男性。
不穏な空気を感じないでもないが。仕方がないではないか。・・・まぁ きっと 北一条に入ったとたん 三車線の道で、このチビ太車を追い越してゆかれればいいことだし。
と、時速50キロくらいの速度で運転してました。
するとですね 右についているその車は、速度を ゆっく~~~~りと落したまま、このノロノロ運転の後ろを、ついたままです。
そして、神宮前にさしかかった時に、爆発的な音でスピードを出して真ん中車線に一度入り、そして私の車の前にスレッスレの感覚で一度カクッとワンクッションついてから、更にエンジンをブわあああんとふかし、いちばん左の車線に猛スピードではいってゆかれました。
呆気にとられながら、「おいおい もっと 余裕もとうよ・・・高級車なんだからさ」と呟く自分がいました。こんな軽のおばさんを威嚇してどうする…のだ?せっかくの高級車が泣くぞ。
それとも 私がしてしまった運転って、ものすごいマナー違反だということなのだろうか。
いま、これを書きながら スクールの駐車場をみていたら、ポルシェのすっごく大きな車が停まっている。私のこの疑問を、この車の持ち主に、この後、伺ってみようと思っている。
2月はチューリップとエラ・フィッツジエラルドの歌声
2月の空気には チューリップの花と、エラの歌声がしっくりとくる。と、2月中はチューリップの花を置き、帰宅しては彼女の歌声。そして休みの日には朝からずうううっと繰り返し繰り返し聴いています。
2月に響き渡る声。多くの人がそう思っているのか、2月には彼女の歌が色々なところでよく聴こえてきます。
冬のご飯
冬ご飯は、粕、味噌、麹、出汁そして乾燥させたものを多く利用することが多くなる我家。
それに反して夏は、トマト トマト トウモロコシ 夏野菜で毎日が暮れてゆく。
春は苦みのものがいいし。今年こそはフキノトウを蕾のうちにたくさん採るぞ! と意気込んでいる。
この白菜たちは 肉類と炒め物にすると たまらないいい味になる。
ゆり根は 今夜 素揚げして 色々な料理に展開してゆくのだ……。
美人
男の子には男の子の面白さがあり。また、女の子の話しも聞いてると、オモシロイもんだなぁ。と、考えさせられることがあります。
もうひと昔前。かれこれ十年ほど前に初めてThompson Internationalにやってきた女の子がいました。北の方にある中学校の制服を着ていました。
頭のいい子でした。
また、頭がいいことに重きを自身でも置いていました。
お母さんと反りが合わないらしく、お母さんへの不平不満を漏らしていました。
わたしは その子に言いました。Nちゃんさぁ あなたの言うことが本当なら、水上さんはある機関にそのことを通報しなければいけんのだよ。本当なの?と ズケッと聞くと それからは 激しいことは言わなくなったので まぁ 通常に起こる親子喧嘩の範囲とみなしながら、彼女が勉強の合間に色々な発言に耳を傾けていると、13歳、14歳の小さな身体でも、すっごいこと考えてるもんだなぁと感心することがありました。
いまでも鮮烈に覚えているのが 彼女が高校生になった時に こんなことをブツブツ言っていました。
「わたしはあまり、美しさというものに基準を置かないです。なぜなら美はいつか自分を裏切るから。美というものを職業として生きていける人たちは 選ばれた人たちのなかの極、少数でしかないし。その 少数パイのなかの これまた 少数のものにかけるようなそんな 恐ろしいこと よくこの人出来るな レベルの人が その枠を狙いすぎていると 水上しぁん 思いましぇんか?」 ← なぜか さ と し が こういう風に聞こえる話し方をする子だった。
「厳しいこと言うねぇ」
「その点、勉強は決してその努力を裏切らない。そこに費やした分、それなりの結果が返って来てくれるもの。それは頭脳への投資だと思います」
「はぁ…」
「だから、自分は もしかすると自分は美人になろうと努力すれば、なれるんじゃないか?だなんて思ってしまう美人には生まれなくて良かったと思ってます。いいんですこれで」
「Nはかわいいと思うけどねぇ。なんか独特のムードもあるし」
「やっめてくださいよぉ。こんな男顔のあたしを怖がる男は大勢いますけどね。よく オマエって、世界の村で発見こんなところに日本人 に出てきそうなタイプだなって言われます ( ̄∇ ̄;)ハッハッハ・・・。 まぁ でも 美人と呼ばれる人生よりも 面白そうですけどね」
「…… でもさ 美人って 気分いいだろうねぇ…」と 私。
「そうですかぁ」
「そうよ。あたし 見てしまったのよ。美人の世界を。それはね… あれは 私がまだ19歳くらいだった時だった。 まぁ きれいな同級生がいたのよ。 たまたま、その娘(こ)と、下北沢でバッタリ。なんとなく流れで駅までの道のり歩いたのよ。
するとよ するとっ!! 道にいる男ども 老いも若きも の視線、全員の視線がよ その子に 一斉に ぶぁあああっと 集まったの。 ……後にも先にもないわね。あんなに男の人の視線が集まった世界に身を置いたのは」
「へええ… 水上さん それってどう思いました? トモダチはどんなんでした?」
「感心して、すっごいね。と 言ったわよ。 そうしたら そのトモダチ というか 同級生だわね。 その子は いやなんだ って言ってた。その時は うっそ と思ったけどね。でも、今になると あの子、本当に嫌だったのかもしれない って 思うことある。美人の苦労っていうのも、あそこまでのレベルにいくとあるのかもね。八百屋さんで奥さん美人ね とか褒められるくらいが ちょうど良い感じなんだろうね 生きていくうえではさ」
「美人の苦労。本当にあるんだろうか?」と 懐疑的なNちゃん。
「あるさあ きっと あるよ。美は人を裏切るって、さっきNちゃん言ってたじゃん。 頭の良い人が自分の頭の良さに裏切られることがあるように、まぁ どちらにも 平等に老いは訪れる。その前にも 色々な表情で、試されることあるんじゃないの?」
……と、そんな話をしていた。
彼女は慶應義塾大学を一般入試で合格した。
一般入試で通過したのは 大したものだ! と 東京へ行った。
が… コロナの時期も重なったことと 学校にうまく馴染めなかったのか、彼女は学校を退学した。
そして あるところを受けるために 再びThompson Internationalへ戻り受けた第一志望はむづかしかったが 第二志望の京都の大学へ復学することを決意し、去年の春に旅立った。
電話口で彼女は、こう言った。
「行ってきます。東京よりも京都の方が自分のペースに合っているようにも思えたことと、私は競争、競争でいかなければいけない世界。実は 苦手だったんだってことに気づきました。自分らしいペース 自分らしい生き方をみつけに大学生活、今度こそは失敗しないように がんばってきます」
「京都は大学生には優しい街だってきいてるよ。 楽しんでおいで 人と競争するより もう十分に多くの力があるんだから 競争は もう やめな。 ゆっくりと いい時間紡いでおいでよ。 そんでさ 恋のひとつでもしてさ その人にNちゃんの あの味のある いい笑顔むけられるような そんな出会いがあればいいね」
あれから 一年が経つ。 2年生に彼女はなる。
京都でいい時間を 持っているだろうか。 あの負けず嫌いな 頭の良さで人と比べたいという そこを 抜け出せるような 毎日を生きているだろうか。
お医者さんとの会話
お医者さんっていうのは実に形容詞の使い方の上手い人が多いなあというのが自分の感想です。
「お母様は備長炭なみの骨密度ですが、問題はお嬢様あなたです」とか「血統書つきのアトピー性皮膚炎」とか…
うまいこと言うな。…と、プッ…と吹き出してしまうそんな先生にあたることの多い自分です。
面白い言葉でも使っていないとやりきれないことの多い職業だから、工夫しているうちに生まれてきたボキャブラリーの数々なのでしょうか。
……に、しても おもっしろい先生だったなぁと今でも忘れられないのが
総合病院の耳鼻科のY先生。
もとヤンキーですか あなたは? というくらい言葉は乱暴なんだけど、面白い人でした。
いまから4年程前でしょうか原因不明の病に倒れた私でした。口内炎が喉、食道にまでビッチリと出来ました。夜になると気道が腫れ始めて呼吸が出来なくなる恐怖に何度も襲われ、いまだから 笑って語れますが。その時は実は命落とすかなぁ。と、日に日に弱っていく自分がいました。夜、眠れなく、とにかく喉の痛みは尋常ではなく呼吸が出来なくなるかもしれないという恐怖に 身体の芯が 細り細りと、火が消えてゆく感じの中で生きていました。ああなると不思議なもので、人は生に対しての欲望が薄くなるのです。死んでもいいかなぁ…とどこかで思っている自分が出てくるのです。
母のところにマッサージに来るIさんが、A子さんすぐに病院(大病院の名前)にかかるように!と 血相をかえて私に指令を出しました。
街角の小さなクリニックではだめ!すぐに!と…あのときの表情はいまでも忘れられません。 彼女は看護師の免許もあり、経験からの言葉でした。
さて待たされること覚悟で行った、N病院の耳鼻咽喉科は、その時期、意外と空いていて
通された部屋で、声の大きな威勢のいい男の先生が待っていました。
私の症状をみるなりに、「入院するか?」と聞いてきました。
「入院は避けて、なにか良い方法ありますか?」と聞きました。
「毎日、点滴に来るように。そして今日も点滴を打っていきなさい。血液検査もその点滴打っている間に出てくるから、まず ゆっくりしていくように」
と、点滴が終わって、いざ 血液からの結果発表。
「……が、なぁ… 懸念しなければならない数値が全く 血液にはみあたらないんだよなぁ。と、なると、これまで他の医院から処方されていたヘルペス性のものの薬を、今後も出すわけにもいかんし。他の医者のすることを批判するのは品よくないけど、そのヘルペス用の薬のんだところで、むっだら効かなかっただろ」
「せんせい… むっだら…って いったい何処のご出身ですか? (苦笑いしながら) まぁ ずっと苦しいです この苦しさから救ってくれる薬を出してください。もう なんでもいいです。モルヒネでもなんでも 出せるものなら出して」と 私は乞います。
「だよな…苦しいよな でも 申し訳ないが そうじゃねえか?ってことで 薬は勝手に出せんのだよ。でな これ もしかすると 食道 胃腸の方から この疱疹のようなものが発生している場合もあるかもしれないから 今度は胃カメラのんで、まず様子をみることにして。その間は……」と、言葉を途切り、一瞬絶句のような形をとります。
「先生、なんですか?」と 私は悲愴に問います。
「その間は…… ブッ(笑いをこらえる様に) 悪いな…… その間はこれで我慢をして耐えてくれ」と痛み止め(薬局でも買えるような あの痛みとめる薬)とトローチを私にみせながら、申し訳なさそうに けれど なぜか 笑いながら これからの方針を説明していました。
それから毎日、行きましたよ。点滴。
その間、胃カメラ検査。食道には若干あるものの 深刻なことではないと診断。
そして 血液の癌なのではないか?という見方から その科にも行きました。
まったく 問題なし。
でも、点滴のおかげあってか 問題は少しずつ解決してゆき、なんとか爛れはひいていきました。 ものも食べられるようになりました。
それから少しずつ体力をつけて 回復に向かってゆきました。
先生との問診で なんか笑ってしまっているのことしか覚えていません。
深刻な病でなかったから、そんなことで良かったのでしょうけれど。
深刻な病でも、どこか笑いを持ってアプローチしてくれる方が ありがたいような気もするなと思っている自分がいます。
小学生との会話
小学生っていうのは面白いこと言うもんだなぁ。と感心することの多い私ですが
昨夜など 小学高学年のHちゃんとの会話がこんなんでした。
準1の練習をしながらの会話です。
「でもさぁ Hちゃんが 小学生で準1受かっちゃったらさ またもや Hちゃんに続けの後輩が増えるのではないかい?」
「えええ? そんなのないですよ」
「そうかなぁ… Hちゃん 2級小学4年生で受かっちゃうのすごいねぇ って 後輩たち何人かいま2級と格闘しているよん」
「ああ それは 親だけですよ。親だけ(笑) 子供たちは み~~~んな 仕方ねぇなぁって勉強しているだけですよぉ」
「えええ 絶句。とは 言いながらも そんなもんだよな 子供は確かに そんなもんだと思う」
「へへへ そうですよ。でも仕方ないなって 親に付き合って勉強しているペースが自分のものになってきたりして てへへ」
「すっごいじゃない。それでも 付き合っていける能力。大したもんだ。でも わたし 最近になって 分かったことがあるんだけど。 あれ 頭のいい子ってさ……例えば記憶力がいい子って、自分で記憶力がいい。と若年から気づくわけじゃない?そうしたらさ、その己の記憶力の良さを誇示したいから周囲に語る。自分の記憶の確かさを誇示する気持ちで周りにそれを言いたいじゃない?周りが感心するようなことを。すると そのうちに 益々 そのおかげで 記憶がより定着してゆくという羨ましい循環にいるんだよな あれ」。……と、感心して言うと。
「そういう人いました。いました。しかも後ろの席に。ずっと一人で 変に妙な事に詳しい人がいたりしたんですよ。一人でブツブツとずっと語っているから、周りも感心して聞いてあげたりする素振りで付き合ってあげていたんですよ。すると、もう滑らかになり滑らかになり、その分野(宇宙とかそんな世界のはなし)のことは相当なことまで知っちゃう人になりました。その人、記憶力は確かによくって、家に帰ってご飯食べた後に、夜必ずその日にあった出来事を30分間、親にプレゼンのように聞かせるっていう人でした」
「付き合う親もエライね」と、私。
「はい。えらいと思います」とHちゃん。
その後、記憶を定着させるには、記憶力に揺るぎのない自信があり、それを自慢げに語れる人が一番、効率よく色々なことを記憶できるよなぁ という話に落ち着きました。
Hちゃんは自分はそれが出来ないと 言います。 あれだけ 勉強できるのに。
じゃあ 水上さんは どうすればいいのか? 見たものを一回で憶えるだなんて幻の世界。一回聞いたことはすぐに記憶喪失。しかも数秒前に聞いたことが怪しい。
どうすればいいのか? に、関しては そういう人のことは分かりませんが…と、私のことは ひとつ 置いておかれ。
Hちゃん いわく、勉強は スイッチが入るまで、面白い空間を作るようにしてます。
そうじゃないと 自分の場合は いやになっちゃってやめちゃうから。ですから こうやって準1の準備をしながらも、自分のペースをわたし、意外と守ってるんですよ。笑いながら水上さんと話したり、その時間に楽しいことを組み込んで、ここだ!という瞬間がきたらスパート、気合をいれるんです。 それが 自分のパターンだと思ったりしてるんです。
「あなた…小学生だとおっしゃるのに、また、随分と早くから、ご自分のことをご存じで。えらいわねぇ……」と 感心しきりの私。
「それは、親に勉強 勉強と 言われ続けた 小学生の強みです」
「えらいわあ…。わたしが50歳くらいで悟ったことを すでに会得しているHちゃん。尊敬するよ」
と、トホホとほんとに頭が下がります。
冷蔵庫の使い方。自分流
一つだけ、自慢できることがあり、それは冷蔵庫のものを自分は大体、使い切ります。
冷蔵庫でダメにするということは、ほとんどないと思います。
反面教師というものがあるとしたなら。私の場合はそれであるのかと思うほど、母親はまず、ものを腐らす人でした。食べ物をダメにするために冷蔵庫にわざわざ入れているのではないか?と、疑うほど、見事なくらいに 青物ははじっこが茶褐色となり、肉類は色が変わってしまっている有様が、彼女の冷蔵庫でした。
その割には いつも冷蔵庫掃除をしなくちゃしなくちゃと 言い聞かせるように月に一回くらいは 冷蔵庫の掃除をしていました。
わたしはそれを見て、なにかおかしいぞ。絶対に変な行為だなと 子供心に感じていたのでしょう。
冷蔵庫でものをダメにするということのない台所仕事ができるようにはなりました。
そのコツは、みわたせる冷蔵庫を管理することだと思います。
ものを詰め込むのではなくて 見渡せる状態を管理。
いまでも母の冷蔵庫をみると瓶詰のもの。加工食品の類が多いです。
それは彼女の嗜好によるものなので、あまり非難はしませんが。 買ったものをただ冷蔵庫にそのまま入れるから 忘れてしまうんだよ。 と 先日は ついに説教をしました。
お肉を買ったら 下処理をして ひと手間かけてから冷蔵庫に入れる。
それもせいぜい3日分。
例えば 鶏肉、ラム肉に鮮魚を買ってきたとします。三日間分です。
それを鶏のささ身の部分は、今晩、カラリとパン粉で揚げたものにするとしたら まず洗って、塩と玉ねぎをもみ込み、調理していきます。その時にラムも玉ねぎとニンニク、酢、メープルシロップ少々、そして塩とオリーブオイルでマリネします。それは明後日のもの。そしてマグロのさくは翌日に漬けにするとしてキッチンペーパーで水分をとることを目的に違うバットで保存します。翌日用です。
野菜だって買ってきた分を次の買い物まで大体使い切る算段で茹でたり、下準備したり、なんらかんら手を加えます。
すると、次の買い物まで 大体 野菜室もガランとして、あるのは玉ねぎ、ジャガイモくらいになってくれます。
そして保存食も大体4種類くらいと決めます。
調味料もさっささっさと、酢、八方酢、ニョクマム系のものや ケチャップ マヨネーズも 回転よく 回転よく そのために 子供のいないコンパクトな生活は コンパクトなサイズを調味料は求めます。
子供さんのいる家庭は羨ましいなぁと思うのが 大人数分の料理を作れることです。
大人数分作ると、味が美味しくなるものってたくさんあります。
ですが、そこを ぐっ とこらえます。調理する時は 多く作るにしても精々人数分プラス2人くらいです。作りやすい4人分までが我が家の限界。やはり 食べるものは さっささっさと消費してゆく 作り置きをすると冷凍庫で眠らせてしまうことになるので 味も落ちますし また 期限アウトになる危険性大です。
食べるという行為は、体を作ることと同時に、楽しく、そして、死にむかって畳んでゆく消えてゆくという行為に繋がるのかなぁ…と冷蔵庫のものが きちんと 消えてなくなってゆく姿を見送るとき、死んで消えてゆく姿と重ねている自分がいます。
そのイメージを持てば いつも、サラリと死んでゆきたいと声高に願い語っている母も、冷蔵庫のものをダメにすることも減ると思うのですがね。
スリランカ
年末にスリランカへ思い切って行きました。
怖がりの私には勇気のいる旅でした。
無事に帰国し、スリランカでのことを生徒さんたちへ伝えて 早速数名の方たちが、旅のリストにいれられたというくらいに印象深い国でした。
紀元前からの歴史があり、シンハラ王朝からのものがジャングルに歴史と共に埋没し、ポルトガル、フランス、イギリス領の植民地時代を経ながら イギリス人のベル氏によって歴史的遺跡が発掘されていった国。
近年になり、内戦。スマトラ沖地震の津波による大被害。そしてまだ、記憶に新しい大きなテロ攻撃。そして、大統領追放のために起こった暴動。
それだけの出来事が続いたのだから、外務省の危険度指数を調べました、いくらなんでも。
しかし 危険レベル1 と記されているだけではありましぇんか…
おねがい 3と書いて そうすれば あの勇み足だった 風来坊のトンプソンも行くの断念するから…と 出発のギリギリまで願っていました。
が・・・ もう 前日になりましたら 腹が座りました。人間は死ぬときは死ぬ。あきらめよ。
と… 千歳からタイへ。タイからスリランカへと、めちゃくちゃ出発時間が遅い飛行機で
スリランカ到着したのが夜中の1時。
なのに なのに 空港は明るいぞ。明るくしかも活気づいている。なぜだ? 普通 空港というのは夜中は閉鎖しているものじゃないのか? に、しても人々が日中と同じくらいのレベルで活動している真夜中ってすごい。老いも若きも身体を使ってカートを運んだり。掃除したり… 目を丸くしていると笑顔の柔和なスリランカ人男性がThompsonという名前を書いたプレートを掲げて走り寄ってきた。 きれいな瞳に真っ白な歯。私と同じくらいのその人は サンマさんという これから4日間、運転手と一緒に私たちを歴史あるところへと連れて行ってくれる通訳ガイドさんだった。
ときどき 円山クラスなどで紅茶販売をしているパティさんというスリランカの方からの紹介で、通訳のサンマさん、運転手のウポさんとの数日間が始まった。
真夜中の道は静かで、何も見えなかったが 一泊目のホテルはリゾート型なのか コテージが点在しているスタイルのホテルだった。
朝 目覚め身支度をし、朝食のコテージへと向かう。 女性が葉を集めるために掃き掃除をしていたのが印象的だった。一生懸命作業に没頭していた。
迎えてくれた朝食の席での手作りのフルーツジュースは格別な味だった。
手で絞ったものというか くだいたもの のような まだ実のあるようなクラッシュジュースだった。冷えた 西瓜のジュースが うっそ…というくらい美味だった。
ペストりーや、万人向けのコーナーもありながら やはり カレーコーナーが多くを占めているブェッフェスタイル。 豆のカレーと お米で出来た素麵のようなものの組み合わせが スリランカの朝食スタイルらしい。
果物が驚くほど美味しかった。パパイヤも季節じゃないけどねといいながらも日本で食べたパパイヤの味とは違い、風味があった。 バナナも、生きたバナナって こんなんだったの? と こんなバナナが日本にあったら、バナナを黒くする前に食べきるだろうに。と思ったほどだった。 自分が気に入ったのは背丈の小さい サワーバナナと呼ばれる類のものだった。
8時半、真夜中に自分たちが手配した自分たちの宿で、床に就いたはずのサンマさんとウポさん。もう元気にスタンバイしていた。
ホテルの荷物を運んでくれるような人たちへの チップの相場が ピンとまだきていない自分たちは 慣れない手つきでチップを このときは渡していた。
おそらく このチップは 200ルピー(スリランカ) 日本円なら100円くらいでいいみたいです。
さあ スリランカの道路事情。 ほとんど一車線。 その中で トゥクトゥク(あのバイクを改造したようなもの)、自転車、トラック、バイク、そして普通自動車が混在しながら前に進んでいかなければならない。そして 大都会でない限り ほとんど 信号をみなかった。 ということは 道路は 道路はですよ 法治がされていないってこと…なのでしょうか。 これだから だれかが 悪いというのではなくて 全て自己責任。そして一車線で 前にトロイ 運転の人がいる際は それを 一車線の中で追い越してゆくのには それぞれが サーキットドライバーにならなくては 前に進まないということ。
ビュンビュン追い越す 追い越され もう すれ違う車の存在がすぐ隣だなんてざらで
ある時など、反対車線から追い越してゆく大型トラックが車の目の前に来た時には、覚悟を決めましたが。 ウポさんはエッジの効いたハンドルさばきでキュッ!と左にきり… ギリギリ、セーフ。 ひぇ~~~だのきゃ~~~だの言っていた自分も、この時ばかりは無言でしたが。それ以後、慣れというのは恐ろしいもので もう、恐怖心のラインがかなり下がったのか…あらゆることに動じなくなりました。スリランカの交通事情に少しなじんだと思います。
しかし、いま考えると 出発の直前に、アメリカ軍で飛行機も操縦していた経験のあるジェスさんに、飛行機事故の危険度について尋ねたところ。首を振りながら 多分 この日本という安全な国で車で跳ねられるより、飛行機事故にあうチャンスは少ないよ。と言っていたことを考えると…
あのスリランカで、どれくらいの自動車交通事故はあるのだろうか? と、調べるのも怖くて まだ 調べていません。
まずは 本日は これくらいにしておきます。
また おって 紀行文 記せたらと思います。
風邪退治
風邪大流行りですね。
大人が大打撃なような。
私も先週の土曜日のあたりに 鼻が乾き始めました。
これはいけない。の、兆候。
帰宅し。その日はそろりそろりと料理もほどほどに風邪薬飲んで早めに寝室へ。
日曜日 鮭のアラで粕汁をつくりました。
まだ 一触即発な様子は否めませんが
絶対に風邪はひかん。と決めているゆえに ひくくぁけにはまいりません。変な日本語になってしまいましたが
どうか 皆様 お身体くれぐれも 用心 養生 お運びください。
A Happy New Year!
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2025年は1月4日よりスタートをきっています。
本年も皆様の英語の力になれるよう努めてまいります。
いい一年を刻まれますように。
Thompson International